少子高齢化が深刻な社会問題となっている。そうした中、多くの高齢者が、遺品処理や相続のみならず、近い将来、重篤な病気になった際、延命治療をどうするか、または葬儀のやり方などについて、前もって決めておく「終活」を始め、自分なりに調べ、専門家による講演会等に出席したりすることが珍しい光景ではなくなって久しい。しかし、今日のような「終活」ブーム以前に、自分の最後を自分で「決着」をつけた作家がいた。1997年にカンヌ国際映画祭でパルム・ドール賞を受賞した映画『うなぎ』の原作、『闇にひらめく』や『戦艦武蔵』、『破獄』などの歴史小説家として有名な、吉村昭(1927〜2006)だ。
吉村昭の遺作 死顔
吉村が死の直前まで推敲を重ねていた遺作に、『死顔』(2006)という作品がある。これは彼の文学者としての名前を不動のものとした、「現場主義」に基づき、実体験を持つ人々や生き証人たちへの徹底した調査、厳密な時代考証を行った結果、「記録書」ではなく「物語」を生み出した歴史小説系のものではなく、自分自身の過去の経験を下敷きとし、戦後から現代を舞台とした小説群に属するものだ。『死顔』は、病気で亡くなった兄の葬儀に際し、家族の過去、現在が交錯しつつ、葬儀が終わるまでを描いた、30頁の短編小説だ。その中に、「死顔」についての記述がある。
棺の中の死者は、多かれ少なかれ病み衰えていて、それを眼にするのは礼を失しているよ
うにも思える。死者も望むことではないだろうし、しかし、抵抗することもできず死顔を
人の眼にさらす。
妻とそのことについて話し合い、容易に一つの結論に達していた。死は安息の刻であり、
それを少しも乱されたくはない。
自分の死顔を会うことの少い(原文のまま)親族はもとより、一般会葬者の眼にふれられ
ることは避け、二人の子とそのつれ合い、孫たちのみに限りたい。そのためには、死後出
来るだけ早く焼骨してもらい、死顔は、死とともに消滅し、遺影だけが残される。
吉村昭に影響を与えた川端康成
吉村の死の直前まで推敲されていた『死顔』における、吉村の「死顔」観や葬儀観が如実に現れた文章である。吉村自身も「その通り」にした。そして「遺作」が「死」をテーマにしていることは、吉村が惹かれる作家のひとりとして挙げていた、ノーベル文学賞を受賞し、72歳でガス自殺した川端康成(1899〜1972)の影響が大きいと考えられる。
吉村は川端に魅かれる理由について、「作品が、視覚的に鋭い感覚を持っているからです。それに、死の匂いというものがすべての作品に出ていると思うのです」と述べた上で、「私自身にも死というものについての強いこだわりがあるからだろうと思うのです」と結論づけている。つまり、川端も吉村も、幼少期〜青春時代に身内の多くを失い、「葬儀」によく出ていたこと。更にそれを川端の場合は、例えば24歳の時に『葬式の名人』(1923)を著すなど、人間誰しもが自分の周囲の人々、そして自らの宿命である「死」に対して、何らかの経験や考えを有していても、それを小説として「形」になし、「死」そのものを感情的、または主観的なものではなく、対象化、客観化したことが吉村の作家としての方向性やありようの根幹となっていたのではないだろうか。だからこそ、25歳の頃、川端康成の短編小説に自分の進むべき道を見い出し、しきりに作品を筆写していたという吉村にとって、作家人生の集大成である「遺作」は「死」をテーマに選ぶことは必然だったのだ。
晩年の吉村昭は病との闘いだった
晩年の吉村は、病に苦しめられ続けた状況だった。死の前年、77歳の吉村は、2005(平成17)年元旦の日記の冒頭に、吉村は「小説を書く!」と書き記していた。しかし1月半ば、舌の痛みに襲われた。かかりつけの医師から口内炎の薬が出された。一旦痛みそのものは和らぐが、2月に入ってから、再び舌が激しく痛み出した。舌がんだった。幸いなことに体力がもつかどうか、極めて難しい切除手術ではなく、放射線治療で乗り切ることになった。
しかし死の年、2006(平成18)年元旦の日記には、「これが最後の日記になるかもしれない」と記していた。1月20日にはすい臓がんが告知され、2月2日には放射線治療で取りきれなかった舌がん、すい臓の全摘、がんが転移していた十二指腸と胃の半分を切除した。3月10日に退院し、自宅療養を行うことになった。手術そのものは成功しても、病そのものが完治し、元気になれたわけではなかった。2週間ごとに内科検査に通う羽目となり、体重も減り始めていく。吉村は、自身の病について、近所の人、親戚にも悟られないように厳命し、入院さえも伏せていた。そうした中、吉村は5月18日に、愛用の200字詰の原稿用紙に、家族宛の「遺言」を残していた。
吉村昭が遺した遺言
1. 私が死亡した時は、梓夫婦、千春夫婦のみが承知し、親戚の者をふくむ第三者には報らせぬこと
1. 密葬は梓一家、千春一家による家族葬とし、この事務的な手配は栗山正志氏及び氏の指名した補助者に依頼すること
1. 家族葬とすることは、死顔を第三者に見せぬためである(赤インクで、家族葬は葬儀社の一室でおこなう、と付記)
1. 死後、少く(原文のまま)とも三日を過ぎ、日本文藝家協会、日本藝術院に伝えること。同時に正門と通用門に、「弔花、弔問の辞退」の標識を出すこと(電話の場合、電話番の人に「とりこんでおりますので、失礼します」と答えてもらうと但し書)
1. 偲ぶ会については、編集者に一任。但し上記の新聞記事のように日を置いて告別式をするのも面倒がなくてよい(新聞の死亡記事が貼ってある)
1. 遺骨は、遺影とともに、一年間、家に置くこと。無宗教なので、法事は一切なし。
吉村昭が望んだ死に方とは
更に毛筆で、門前に貼るための文言、「何卒弔花御弔問ノ儀ハ故人ノ遺志ニヨリ固ク御辞退申シ上ゲマス 吉村家」が2枚、そして医療関係者宛に、「お願い/いかなる延命処置もなさらないで下さい。あくまでも自然死を望みます」と書いたものもあったという。それは吉村同様作家である妻の津村節子によると、「人さまに御迷惑をかけぬよう、また私に忙しい思いをさせまいという配慮からであった」と、吉村の気持ちを汲み取っている。
また、『死顔』の中には、病院側が申し出た延命治療を兄嫁が辞退する状況が記されている。その中に、「私の考えと一致し、それは遺言にも記してある」と記した後、「幕末の蘭方医佐藤泰然は、自ら死期が近いことを知って、高額な医薬品の服用を拒み、食物をも断って死を迎えた。いたずらに命ながらえて周囲の者ひいては社会に負担をかけぬようにと配慮したのだ。その死を理想と思いはするが、医学の門外漢である私は、死が近づいているか否か判断のしようがなく、それは不可能である。泰然の死は、医学者故に許される一種の自殺と言えるが、賢明な自然死であることに変り(原文のまま)はない」と、自身による「死の決着」のつけ方を思わせる記述があった。
最期を迎えた吉村昭
そんな吉村は7月10日に、再入院しなければならなくなった。18日の日記に、「死はこんなにあっさり訪れてくるものなのか。急速に死が近づいてくるのがよくわかる。ありがたい」としつつも、『死顔』の推敲のことをとても気にしていた。そして、自宅に帰ることを切望していた。本来の予定から1日早く、24日に吉村は退院する。吉村の主治医は、モーターで点滴が一定間隔で落ちる装置をベッドの傍に設置し、常に目盛りを注意するよう、家族に指示した。そして点滴の針は、吉村の首の下部のカテーテルポートに装着された。
そして30日の夕食後、吉村はいきなり、「命の綱」である点滴の管のつなぎ目を外した。驚いた妻・節子は、近所に住む娘と共に、24時間対応のクリニックに連絡した。娘が管を何とか繋いだ。すると吉村は、首の下に挿入してあったカテーテルを引き抜いた。そして「もう、死ぬ」と言った。駆けつけてきた看護師が、ガーゼと絆創膏を当ててあったカテーテルポートを元の位置に戻そうとした。吉村はその手を振り払った。延命処置を望んでいないという吉村の強い意志に、看護師は手を引いた。そして翌31日の午前2時38分に、吉村は絶命した。79歳だった。
吉村昭が42歳の時に書いた「喪中につき…」では
吉村は42歳の時、「喪中につき…」(1970)という随筆を書いている。血気盛んな働き盛りの年頃で、自分の「死」がリアルに体感できていたわけではなかったはずだ。ある意味「傍観者」としての文章かもしれない。それによると、「文学者というものは、あくまでも個であって、血縁の者とも完全に隔絶されたものなのだ」と自身の立ち位置を示した上で、「私には、文学者の御遺族が果てしない服喪の中にいるように思えてならない。一年以上前に亡くなられた文学者の御遺族は、すでに喪も明けたはずである。しかし、私は、御遺族が毎年の年の暮に、『喪中につき年頭の御挨拶を欠礼いたします』という葉書を出しているような気がしてならない」という。何故そう思っているのかというと、「文学者の死というものは、年齢の如何を問わず、作業半ばの死であり、突然の断筆でもある。文学者の死には、こうも書きたいああも書きたいと願いながら、それが果たせないで終る(原文のまま)根強いうらみつらみが感じられる。その怨念が長々と尾を引いて、遺族を喪から解き放さないのではないだろうか」。そして「文学者は、肉体が消滅しても作品の遺る可能性がある。一般の人々の死と比較して、それは最大の特権であり、それだけでも充分ではないかという声もある。しかし、文学者には、これでよしと満足する終点がない…(略)…文学者は、果てしなく筆をにぎりさらに傑作をと願う。それが肉体の死によって、容赦なく完全に断たれるのである」と結論づけている。
作家としての死とは
そして72歳の時、今度は「死」が自分にとって「現実」になりつつあった時だが、吉村は「小説家というのは、仕事のし過ぎで死ねば本望なのです。誰も、やってくれと言われて、小説を書いているのではありません。自分が書きたいから書いているのです…(略)…小説家というのは最初から野たれ死に覚悟の職業なのですから。誰からも、やってくれなどと言われたわけではないし、また、書いた小説が世の中に受け入れられるとは限りません。小説家とは、そういうものなのです…(略)…林芙美子は仕事のし過ぎで死んだ。し過ぎる必要はなかったのではないかと批判されましたけれど、私は絶対にそうは思いません。彼女は本当に仕事をして、そして死んでいった。それでいいのではないかと思うのです。作家として理想的な死です」と、「作家の死」について述べている。
作家には書きたいことがたくさんあるのに死によって叶わなくなった結果、永久に遺族を解き放たないほど重く強烈な「うらみつらみ」を残していくという考え方から、ある意味、「我が人生に悔いなし」と達観している。とはいえ「作家の性」ゆえに、自身の死によって、「作業半ば」「突然の断筆」の無念が完全に払拭されることはないだろう。
「自立した死 自立死」とは
医師で東京・高輪の浄土宗松光寺(しょうこうじ)の第20世住職である与芝真彰(よしばしんしょう、1944〜)は、『自立死』(2013)の中で、胃に穴を開けて管を通し、栄養素や水分を送り込む「胃ろう」や、たくさんの医療機器に囲まれ、更に身体中にたくさんの管をつけ、生きながらえている「スパゲティ症候群」に関し、医師として、常々疑問を感じていたという。そこで達した結論が、「厭離穢土(えんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)へ」だった。いずれも仏教用語で、「厭離穢土」とは、煩悩に汚れた現世をきらい離れることで、「欣求浄土」とは、極楽浄土を心から願い求めることだ。源信(942〜1017)の『往生要集』(985)の序文に初めて登場する言葉である。与芝は「高齢者は社会のため、そして何より自分自身のために、前向きで自立した死を目指すべき」で、「いたずらに生に執着してはならない。また、生をむさぼってもいけない。それより、プライドを持ち、日頃から自らの死と積極的に向き合うべきだ。そのためには、自らの生きざま、死にざまを、自分自身で計画し、実行することが求められる」と述べている。吉村による「死に方」はまさに、与芝がいう、「自立死」そのものだろう。
最期に…
我々は与芝や吉村のように「自立」した「死」を叶えることはできるだろうか。認知症などの脳疾患で「昔の自分」を喪失してしまったり、または苦しい病による肉体的・精神的疲弊に陥っていたりしたなら、「自分」を冷徹に保ち続けることができるはずがない。「死にたくない!」と残りわずかな生に執着し、「手放す」ことを拒絶したくなるかもしれない。そして、必ずしも作家でなくとも、吉村が言う「うらみつらみ」ではないが、人は誰しも、会いたい人、まだしたいこと、しなければならないこと、見たいこと、見たいものが次々と心の中に湧き上がり、「これでよしと満足する終点」などには到底たどり着けそうもないかもしれない。「時間がない!」ことへの焦燥感も募るだろう。しかし、「今」、まだ元気なうちから、少しでも、たとえ作家のように、自分の「作品」を世に残すことがなかったとしても、「我が人生に悔いなし」を目指し、少しでも「自立した死」を死ねるよう、心のみならず、現実的な準備をも進めておきたいものである。
参考文献
■吉村昭「喪中につき…」早稲田文学編集室(編)『早稲田文学 第7次』1970年3月号(106−107頁)早稲田文学会
■水野弘元・中村元・平川彰・玉城康四郎(編)『仏典解題事典』1966/1977/1983年 春秋社
■吉村昭『わが心の小説家たち』1999年 平凡社
■日本国語大辞典第2版編集委員会/小学館国語辞典編集部『日本国語大辞典 (第2巻)』、『本国語大辞典 第2版 第5巻』1972/1979/2001年 小学館
■吉村昭『死顔』2006年 新潮社
■高井有一「貫く意志 −吉村昭さんの事」『新潮』第103巻 第10号 2006年10月号(192−193頁)新潮社
■饗庭孝夫「歴史と叙情」『新潮』第103巻 第10号 2006年10月号(194−195頁)新潮社
■「津村節子ロングインタビュー 長い間に、字まで似てきた」『文藝春秋 9月 臨時増刊号 吉村昭が伝えたかったこと』2011年9月1日号 (126–138頁)株式会社文藝春秋
■与芝真彰『自立死』2013年 幻冬舎
■笹沢信『評伝 吉村昭』2014年 白水社