3月26日、神戸市が葬儀に関するある事件を公表した。1月28日に病院で死亡した80代男性の遺体を、その日の内に火葬してしまったのである。法律上、火葬される遺体は死後24時間経っていなければならないのだが、この法律は古くからの復活を願う文化に由来する。
土葬から火葬へと移行していった日本
現代の日本では火葬が主流ではあるが、もちろん昔は土葬文化も存在した。例えば、縄文時代の土葬では、遺体の足を折り曲げて、抱え込むように埋葬する屈葬という文化があった。これは埋葬するスペースの節約のためでもあるが、その足を曲げて抱え込む姿が胎児を連想させ、新しい命としての復活を願うものでもあった。この復活を願うという文化は今でも強く根付いていて、例えば、沖縄県では今でも魂呼び、または魂呼ばいと言われる文化がある。誰かが亡くなると、しばらくの間はまだ魂がそこらへんに漂っていると考え、家の屋根の上や軒下、はたまた井戸の中に向かって、故人の名前を呼びかけるそうだ。名前を呼ぶだけなんて、と思われるかもしれないが、昔は今ほど医療が発達していないので、死亡したという判断が曖昧であり、死んだと思った人間がひょっこり復活することがあったのかもしれない。火のない所に煙は立たないのである。
一方、復活を願う気持ちには、同時に死を受け入れきれない気持ちが存在している。死を受け入れ、気持ちを整理する儀式として、棺の中にしばらく遺体をそのままにして置き、白骨化までを確認する殯(もがり)という文化がある。沖縄県では、遺体を野に暴露して置く風葬とその遺体を洗う洗骨という風習があるが、これも殯の一種と言える。この殯のための期間というのが、死後24時間経たないと火葬できない決まりに影響しているのであろう。
土葬が主流の米国
アメリカ映画のホラーものではゾンビの存在は定番と言えるが、邦画ではあまりみないし、あまり有名な作品を聞かない。せいぜいスリラーのMVぐらいだろうか。これはアメリカでは土葬が主流なのに対し、日本では火葬が主流であることに関係している。何故かというと、国土の問題が大きい。日本の国土はアメリカと比べてとても小さいため、誰かが亡くなる度にそのまま埋めてしまうと、墓地だらけになってしまうため、燃やして骨だけにする。これは屈葬とも共通する。
もう一つの大きな理由として、日本とアメリカの復活信仰の違いも影響していると考えられる。日本は仏教が普及しているため、輪廻転生という考えが古くから広まっている。人は死後もその魂は在り続け、別の器に宿り、その器は生前と同じ人間とは限らない。因果応報という言葉もこの考えに由来する。生前の行いが、輪廻転生し、生まれ変わった後の人生に影響を及ぼすのだ。いわば魂の復活である。他方、アメリカではキリスト教が多数を占めている。イエス・キリストと言えば死後に復活した人間として有名だが、これは肉体の復活と言える。つまり生前と同じ肉体での復活を重視しており、遺体を焼いてしまうとこれが叶わない。しかし仏教では輪廻転生による魂の復活を重視しており、生前の身体はあくまでも生まれ変わる前の抜け殻なのである。ちなみにマイケルジャクソンは土葬らしい。
最期に…
葬式は年々単純化している。死後24時間経たないと火葬できないという法律も、もしかしたら無くなるかもしれない。人の寿命が延びていく一方、死んでからが短くなっていくわけである。昔は治らなかった病気や怪我が治るようになり、人の死というものがあまり身近に感じられなくなった。仏壇がある家も最近では珍しいだろう。人の死は忌まわしいものとして扱われる一方、神聖なものでもあった。死を身近に感じ、今の生に感謝する機会は一見失われているように思える。けれども、案外そうとも言えない事実がある。日本にはお盆や初詣と言った宗教的儀式が今でもカレンダーに残っている。無宗教者や物心つかない小さな子どもであっても、お盆にはせっせとキュウリとナスに割りばしを突き刺し、年始にはわざわざ寒い中賽銭を投げ、いい歳した大人でさえおみくじに一喜一憂するのである。お盆も初詣も、元来死んでいった自分の先祖たちを思い出し、報告と感謝をする儀式であり、集団墓参りとも言えるだろう。本来の意味を知っているかどうかは問題ではない。宗教の有無に拘らず、強制的に故人を悼ませるわけでもなく、蔑ろにするでもなく、暮らしの中で自然に故人を思い起こすための時間が確保されているのである。殯にしても、お盆と初詣にしても、残された人と故人、両者への粋な計らいは、日本独自のものであり、今後大切にしていくべき文化であろう。