世界中に一大ムーブメントを引き起こした多くの製品を世に生み出したApple社のカリスマ創業者、スティーブ・ジョブズ(1955〜2011)が愛し、作品をコレクションしていたこと。そして失われてしまった大正・昭和の風景に近年、日本国内のあらゆる世代の人々から再び注目を集めている木版画家がいる。川瀬巴水(かわせはすい、1883〜1957)だ。
川瀬巴水の生い立ちと日本画との出会い
川瀬巴水は東京市芝区露月町(現・東京都港区新橋)に生まれた。父は糸組物の製作と販売を兼ねた職商人だった。母は江戸っ子気質で、巴水が5歳ぐらいの時からから芝居に連れて行くような、「粋」な人物だった。しかも巴水は絵を見るのが好きで、絵草紙屋へ行き、役者絵や武者絵をよく観ていた。特に月岡芳年(つきおかよしとし、1839〜92)の浮世絵に、深く惹きつけられていたという。
14歳になってから週に1度、画塾に通ったりもしていたが、親戚からの反対に遭ってしまった。そして1年ほど、家業を手伝い暮らした。そして、家業を継ぐ約束のもと、趣味・道楽で絵を描くとして、19歳のとき、日本画家の荒木寛友(かんゆう、1849〜1920)に弟子入りした。そこで1年ほど、梅・蘭・竹・菊など、日本画で重要とされるモチーフを描いていた。この頃、家の仕事を終えた夜間、ランプの下で絵を描き続けていたため、目を悪くし、いつしか弱視になってしまったという。しかし日露戦争(1904〜1905)が終わったぐらいから、巴水の家業が傾き始めた。25歳になった巴水は妹夫婦に家を継がせ、日本画の大家・鏑木清方(かぶらききよかた、1878〜1972)に弟子入りを志願した。しかし清方からは、「絵描きになるには、年を取り過ぎている」として、洋画を勧められる。そこで葵橋洋画研究所(後の白馬会)に通い、洋画家・岡田三郎助(さぶろうすけ、1869〜1939)の指導を受けることになった。しかし日本画への思いを断ち切れなかった巴水は2年後、再度清方に入門を懇願し、念願の弟子となることができた。
版画に目覚めた川瀬巴水
その後巴水は、和装小物店の銀座白牡丹で働くかたわら、広告図案や櫛・かんざし・帯留などの図案を描いていた。そんなとき、1918(大正7)年、巴水が35歳の頃、美人画で知られる伊東深水(いとうしんすい、1898〜1972)が「郷土会第4回展」に、江戸期の歌川広重が残した作品群とは一線を画する、モダンな構図や色使いの風景版画『近江八景』を出品した。それを見た巴水は衝撃を受け、自分も風景版画を手がけたいと思い始めた。
巴水にとって幸運だったのは、後に「最後の版元」と称されるようになる渡邊庄三郎(しょうざぶろう、1885〜1962)との出会いが大きい。庄三郎は、江戸時代に興隆を極めたものの、明治に入り、衰退の一途をたどっていた版画の復興を目指していたからである。
当時の日本国内の木版画は非常に優れていた
木版画そのものは、版元の依頼によって、絵師・彫師(ほりし)・摺師(すりし)の手作業による分業体制でなされていた。しかも18世紀の西欧において、色彩版画が制作されていたものの、それは一部の富裕層を対象とするものだった。しかし日本では、明和年間(1764〜1772)において、鈴木春信(はるのぶ、1725?〜1770)などが描いた多色擦りの錦絵ばかりではなく、引札(絵びら)・大小暦などの暦(現在のカレンダー)・うちわ・お菓子や化粧品の袋・包み紙・巻紙(まきがみ)・封筒や祝儀袋、のし紙・千代紙・短冊・色紙などの「小間紙(こまがみ)」など、一般庶民が手に入る木版画の製品が広く流通していたことから、西欧と比べると、質も量もはるかに凌駕するものだった。
しかし徐々に衰退していった木版画
しかし明治30年代(1897〜1906)に入ってから、木版画の需要が減り始めていった。錦絵でも、2枚、3枚といった続きものの絵がつくられなくなった。「題材」としては豊富な日露戦争に関しては、錦絵ではなく、写真製版による報道画報ものや、西洋で絵画の複製品をつくるためにさかんに用いられていた、多色刷りの手法であるクロモ石版に押されてしまっていた。たった1枚の錦絵に関しても、版元が売値2銭(現在の価値で200円。当時の銭湯の入浴料ぐらい)などの「安価な値段」に執着したため、1枚にかかるコストを下げる必要が生じた。その結果、顔料や紙の質を落としたり、より大量につくるため、油性インクを使用したり、機械刷りなどを行ったことから、質が低下し、ますます客離れが進んでしまった。しかも「絵師」も、「版下絵師」や「版下画工」としての生き方から、展覧会出品を目指す芸術家志向となり、肉筆画制作に専念してしまうようになる。更に明治後期(1907〜12)になると、出版は大量出版、大量消費時代に入り、新聞・雑誌・単行本の部数が以前より増していった。その結果、伝統的な手仕事では太刀打ちできなくなった。白黒印刷は石版、アルミ版などの平板印刷機械、カラー印刷は押圧式印刷機が導入された。そのため職人たちは生き残りを賭けて、「応用」と呼ばれる、例えば木版印刷をした上に多色石版印刷をするものや、コロタイプ写真版に木版で色づけしたものなど、旧来の方法に新しいやり方を採用していたが、時代の流れは木版業界に不利に働く一方だった。
渡邊庄三郎が立ち上がり、木版画の再興を目指した
このような状況の中、庄三郎は、1909(明治42)年、銀座に「渡邊木版畫舗(がほ)」を立ち上げた。そこで彼は、江戸時代から続く伝統的な木版画技術の復興、そして版画の普及活動を目指した「新版画運動」を提唱し、自ら版元となって、絵師・彫師・摺師の分業体制を維持しつつ、新しい時代に即した「新版画」を世に送り出す。
庄三郎の「戦略」が巧みだった点は、顧客として、日本人の好事家ばかりではなく、日本に旅行や仕事で訪れている富裕な西欧人を対象とし、彼らが好む日本的特徴のある山水人物などをモチーフとした木版画を制作すること。そして彼らが「おみやげ」として木版画を買って行くことばかりではなく、輸出を計算に入れていたことだ。庄三郎による「新版画」は、19世紀の西欧で芸術界を席巻していたジャポニズム(日本趣味)の機運から大いに受容された。その結果、関東大震災(1923年)までに500点以上の作品が制作され、「版画のともしび」が消えることはなかった。
川瀬巴水の処女作『塩原おかね路』と木版画への思い
巴水は庄三郎の下、深水の風景版画を観た年に処女作、『塩原おかね路』を製作する。それ以来巴水は、生まれ育った芝大門などの東京をはじめ、京都・金閣寺や大阪・四天王寺など、世間によく知られた名所旧跡のみならず、日本中の「風景」を自ら歩き、写生し、表現し続けた。そして後に、「私の絵は写生そっくりと云う人もあるが、私は版画になるところを写生した。前はそうではなくて、興味本位でかいていた。版画をつくるようになってからは、版画としての出来上がりを予想して、1本1草も除けなくてよいところを選んで写生するようになった。そのうち見る風景が版画に見えるようになってきた。また写生をはなれると、でたらめのような気がしてならなくなった」と、「木版画絵師」としてのこだわりを語っていた。
また、自分の「原点」となった作品を手がけていた深水は、巴水よりも15歳年下だったが、巴水は生涯、深水への敬意を払い続けていた。そして深水もまた、巴水の作品が1930(昭和5)年に、アメリカ・オハイオ州のトレド美術館で開催された「現代日本版画展」において92図出品されたこと。そして東京・上野松坂屋でも、巴水にとって初めての個人展、「川瀬巴水版画展観」が開催された際、巴水のことを「旅情詩人」と呼んで、作品の素晴らしさをアピールしたのである。巴水は深水の言葉通り、関東大震災、第2次世界大戦(1939〜1945)の苦難を経験しつつも、大正〜昭和の日本の「風景」を詩情豊かに描き続けた。
川瀬巴水の代表作の一つ『平泉金色堂 絶筆』のエピソード
そんな巴水が描いた絶筆『平泉金色堂』に関するエピソードを紹介したい。1957(昭和32)年2月、73歳の巴水は体調を崩して入院してしまう。翌月退院するが、体調は思わしくない。そんな中、巴水は5月3日に岩手県・平泉の、奥州藤原氏ゆかりの中尊寺金色堂の版画制作に取りかかる。それは巴水が51歳の時に手がけた、夏の夜の『平泉金色堂』を再び取り上げ、今度は雪景色バージョンで仕上げようとしていたのである。その際、描かれていなかった、長い階段をもう少しで登り切ろうとしている、旅の雲水を書き加えた。巴水は雲水の立ち位置に苦慮し、下絵を何度も書き直している。「版画ノイローゼ…これでおしまいにしたいものだ」と日記に記したりする中、都合11回、描き直し、5月31日に完成した絵を工房に届けたのである。
その後、版木(はんぎ)の彫刻、色分け、板調べ、試擦(ためしずり)、本摺(ほんずり)などの工程を経て完成するのを待てず、巴水の寿命は、11月27日に尽きてしまった。書き加えられた雲水は、絶筆を覚悟していた巴水自身の姿を描いていたものだと考えられている。「いろいろあった」人生の到達点、終着駅を目前とした雲水の背中は、「あと少し」という緊張感や焦燥感、そして孤独ながらも厳格にまっすぐ伸び、また同時に、達成感や安堵感にも満ちている。
こうして完成した『平泉金色堂 絶筆』は販売されることなく、翌年の巴水百箇日の法要の際、巴水を看取った梅代夫人によって、親戚や関係者だけに配られた。庄三郎の後を継いだ渡邊章一郎は、巴水の「絶筆」に描かれた雲水が、「間もなくこちらを向いて、『皆様、大変お世話になりました』と挨拶をする光景が目に浮かぶ」と書き記している。
川瀬巴水が表現したかったこととは
巴水が表現したかった世界とは、66歳当時の巴水が語っていたところによると「やはり静かな、しみじみとした世界が良い。雪もそんな感じのものは心を惹く。静かなもの、うらびた(うらぶれた)もの、うち寂(さ)びたもの、私の世界はここにある」だった。伊東深水が言った通りの「旅情詩人」、しかも文字によらず、風景木版画を通して「詩」を描き続けていた巴水だったが、『平泉金色堂 絶筆』はまさに、彼の「世界」の集大成だ。
最期に…
巴水が描いた大正〜昭和の日本の多くは今現在、失われ、もはや見ることができない風景である。しかし芝大門でも金閣寺でも、絶筆の舞台となった奥州平泉の中尊寺金色堂でも、今なお当時を彷彿とさせる「風景」は存在する。もしも我々が冬の中尊寺を訪れることがあったなら、雪景色と渾然一体となった雲水の姿が見え、しかもその雲水は木版画家・川瀬巴水にも、また、「自分」にも重なったものに思えるかもしれない。それこそが、「芸術家」の真骨頂だ。木版画家としての巴水が「見た」世界、そして捉えようとした世界、「描いた」世界は、巴水が亡くなった後でも、そして「風景」そのものが失われてしまっても、永遠に残り続けているのだ。
参考文献
■山口桂三郎「川瀬巴水論 −その一生と作品」川瀬巴水展実行委員会(編)『旅情詩人 大正・昭和の風景版画家 川瀬巴水』1990年(8−14頁)大田区立郷土博物館
■岩切信一郎「明治期木版文化の盛衰」青木茂(監修)・町田市立国際版画美術館(編)『近代日本版画の諸相』1998年(89−118頁)中央公論美術出版
■清水久男『川瀬巴水作品集』2013年 東京美術
■高木凛『最後の版元 浮世絵再興を夢みた男 渡邊庄三郎』講談社
■清水久男(監修)『川瀬巴水 決定版:日本の面影を旅する (別冊太陽 日本のこころ 252) 』2017年 平凡社
■林望『巴水の日本憧憬』2017年(104−113頁)河出書房新社
■「ジョブズも愛した川瀬巴水 −何かを諦めきれないあなたにこそ、観てほしい。」(ライブドアニュース 2017年10月21日)