「願はくは花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」ーーこの和歌は、西行の作中詩の中でも特に有名なものである。晩年に詠まれた歌で、西行の歌集である『山家集』や 鎌倉時代の勅撰集である『続古今和歌集』に収録されている。
この短い言葉たちの中の、何が現代に生きる我々の心を揺するのか。西行が桜に対して抱いた思いを少しだけ考えてみたい。
西行の思いを読み解く――「願はくは」の和歌について
ねかはくは花のしたにて春しなん そのきさらきのもちつきのころ (山家集)
ねかはくは はなのもとにて春しなん そのきさらきの望月の比 (続古今和歌集)
花の下を「した」と読むか「もと」と読むか、など出典により細かい違いはあるが、歌の基本的な意味や形は同じだ。ここでの「花」は桜を表しているという見解が一般的である。この和歌の意味はこうだ。
「願うことには、桜の花が咲いているもとで春に死にたいものだ。
それも、(釈迦が入滅したとされている)陰暦の二月十五日の満月の頃に」
西行は桜を心から愛しており、彼の著作の中にも桜にまつわる歌は多く残っている。桜が花を咲かせる春は、四季の中でも西行にとってお気に入りの季節であったことだろう。
釈迦の入滅がいつであったか関しては諸説あるが、日本や中国では「二月十五日」を入滅の日と定め、涅槃会(ねはんえ)が催される。
旧暦二月十五日は太陽暦ではちょうど今頃、三月の中旬にあたる。
西行は出家した身であるため、春の中でもとりわけ その時期にこの世を去りたい、と思いを込めたのだろう。
驚いたことに、西行は文治六年(1190年)の二月十六日にこの世を去った。西行にとっては本懐を遂げたと言ってもいいだろう。その生きざまは藤原定家や慈円の感動を呼び、当時名声を博したという。
西行と桜
西行が桜の中にどんなイメージを抱いていたのかということは、今でも国文学において考察されている。恋焦がれた対象、あるいは高貴なもののイメージ、美への称賛、命への慈しみ…西行の歌から読み取れるものは多くある。
西行は生涯で作った約2090の和歌のうち、実に230首で桜を詠んでいる。23歳のときに、春には桜で覆われ「花の寺」といわれた京都西山の勝持寺で出家したのも、偶然のことではないだろう。
美しく咲く桜の花に、人の生死のイメージが重ねられることは少なくない。死と桜を結びつける物語や作品も多く存在し、日本人の中になじみの深い発想とも言えるだろう。
毎年花をつけては散ってしまう桜の花に、西行は仏教における輪廻転生の姿を見たのかもしれない。
だんだんと気温が上がっていき、春の足音がもうすぐそこまで聞こえてきた。
桜の開花が待ちきれない今日この頃の思いは、時代に関係なく日本人なら誰もが持つ心なのかもしれない。