2018年1月より、NHKで大河ドラマ「西郷どん」の放送が始まった。舞台は江戸時代末期の薩摩藩、青年編では 薩摩の地を豊かにし、真の『薩摩隼人(さつまはやと)』になろうと奮闘する青年・西郷小吉(のちの西郷隆盛)の姿を描く。
49歳の若さで死んだ西郷隆盛
西郷は1877年に49歳でその生涯を閉じた。私学校の生徒の暴動から始まった西南戦争の指導者となるも、破れて自刃したとのことだ。亡骸は 鹿児島県外で戦死した薩摩軍の遺骨も含めて 合わせて2033人が埋葬された 鹿児島県の南州墓地にある。
南州墓地の南側には、勝海舟が西郷によせて詠んだ歌の歌碑が残っている。
『ぬれぎぬを干そうともせず子供らがなすがまにまに果てし君かな』
この歌にはどのような思いが込められているのだろうか。多くの人に愛された西郷の人柄を少しだけ紹介したい。
西郷隆盛の一生
西郷隆盛といえば薩長同盟が一番に思い浮かぶ人も多いだろう。流罪の相次いだ不遇の時代を耐え抜き、1864年の禁門の変以降には明治維新に向けて活躍した。
坂本龍馬の勧めで長年ライバル関係にあった長州と討幕のために薩長同盟を組み、王政復古を成功させた。その後の戊辰戦争でも新政府側の中心人物として指導し、江戸総攻撃の前に勝海舟らと降伏交渉に当たって、旧幕府側の降伏条件を受け入れ総攻撃を中止、江戸無血開城を実現した。
しかしその後、西郷は再び不遇の時代をたどることになる。参議として新政府に参加し、岩倉使節団の外遊中には留守政府を任され多くの改革を成し遂げたものの、朝鮮との外交問題で 帰国した大久保利通らと対立し下野。鹿児島に帰郷し私学校での教育に専念するも、繰り返される士族の反乱の中で 西郷自身も私学校の生徒たちに担ぎ出され、大きな反乱の指導者となった。1877年、西南戦争である。
この西南戦争に西郷は破れ、城山で自刃した。以降西郷は征韓論者として扱われ、死後十数年が経つまでその名誉が回復されることはなかった。
勝海舟の歌碑ーー「濡れ衣」を着せられた西郷
『ぬれぎぬを干そうともせず子供らがなすがまにまに果てし君かな』
勝海舟が亡き西郷によせて詠んだ歌は、今でもその歌碑が南州墓地に残っている。その訳はこうだ。
『征韓論者や乱暴者としての濡れ衣を晴らそうともせず、弁明や弁解もしないままに 私学校の学生たちに担ぎ出され、西南戦争に敗れて賊臣として命を落とした西郷よ、君が気の毒でならない』
そもそも西郷が本当に征韓論者であったかというと、一概にそうだと断定はできない。朝鮮に対しての国交も、西郷は武力での制圧よりも先に「話し合いで交渉をまとめるべきだ」と強く主張している。
それをはじめとする様々な『誤解』を解こうともせず散っていった西郷を、特に江戸無血開城に当たって膝を突き合わせて交渉した勝は慕い惜しんだのであろう。
多くの藩士たちに慕われ、今においてもすっかり墓を囲まれている西郷隆盛。今年の大河ドラマで、新たな「西郷どん」像は出来るのだろうか今後の視聴が楽しみだ。