わずか38歳で入水自殺した作家・太宰治(1909〜1948)の『斜陽』(1947)の直筆原稿は現在、東京都目黒区の日本近代文学館に所蔵されている。しかしそのうちの6枚だけが所在不明のままだった。ところが新潮社の佐藤俊夫(1904〜1990)元会長の遺品から、夏目漱石の手による自画像入りの絵はがきなどと共に、4枚の原稿が見つかったという。
取扱が非常に難しい遺品
このように、かなりの時間が経過していたとしても、亡くなった人の周りの人々が、残していったものをきちんと峻別し、日本を代表する作家の貴重な遺物を掘り起こすことができればいいが、現実にはとても難しい。身内の遺品でなくとも、我々があるとき思い立って自分のものの「断捨離」した後から、「ああ、あれ、捨てなきゃよかった!」と気づいて、激しく後悔することがある。または、大切なものを間違えて捨ててしまっているのを気づかないまま暮らしていることもあるだろう。
しかも60歳以上のシニア世代のみならず、将来そうなるかもしれない…と、現在働きざかりの独身の人々が心配している「孤独死」の問題がある。東京都監察医務院のデータによると、東京23区内におけるひとり暮らしで65歳以上の人が死因不明の急性死や事故によって、自宅で亡くなった数は、2014(平成26)年には2891人。また、独立行政法人UR都市再生機構によると、同機構が運営管理する、日本全国の賃貸住宅約75万戸において、自殺や他殺などを除き、死亡から1週間以上経過してから発見された件数は、2014年には186件。65歳以上に限ると、140件となっていたという。
孤独死で亡くなった方々の遺品の殆どは業者によって処分されてしまう
このように、ひとり暮らしで「孤独死」した人々の遺品は、太宰治の直筆原稿のように、何年もの時を経て、誰かに見出されることはまずない。よほどのことがない限り、全ては「ゴミ」と見なされ、専門業者が処分して「終わり」である。実際、死後かなりの日数が経ってしまった部屋に入ったとき、そこには強烈な死臭と共に、遺体から漏れ出た体液にたかるゴキブリやハエ、脱ぎ捨てられたオムツ、段ボール箱、お菓子の空袋、コンビニ弁当の殻や食べ残しなど、大量のゴミが溢れ返っているのだ。こうしたことは、認知症などの病気か、本人の意思かのいずれかによって、正常な判断力や意欲が低下してしまったことから、必要な食事を取らなかったり、体調不良にも関わらず、医療を拒否してしまうことから、自身の心身の健康状態を損ねてしまっている、いわゆる「セルフ・ネグレクト(自己放任)」状態に陥ってしまっていることから起こるとされている。そうなると、人との関わりを拒否したり、閉じこもりがちになってしまう。その結果、何らかの病疾で急に倒れたときに、自分ひとりで救急車を呼ぶなどして、即座に病院に行くことが叶わず、そのまま絶命してしまうのだ。
一般に「孤独死」の原因として、「昔は地域のつながりが強く、誰かにおかしなことが少しでも起こったら、それを未然に防ぐ役割を果たしていた。しかし、高度経済成長期以降の日本の都市部は、都市化や核家族化によって、『隣は何をする人ぞ』、が当たり前となった。そのため、昔ながらの『向こう三軒両隣』的な、余計な関わりを好まない人が多くなったからだ」と言われる。しかし、こうした「孤独死」は必ずしも「現代」の問題とは限らない。1973(昭和48)年、アメリカのシカゴ市内の賃貸アパートで、あるひとりの老人が孤独なまま、亡くなった。しかもその「孤独死」そのものが珍しいものではなかったばかりではなく、彼は、大量の「遺品」を残したまま、この世を後にしたのである。
ヘンリー・J・ダーガーの作品は死後に日の目を見た
その男の名前はヘンリー・J・ダーガー(Henry J. Darger, 1892-1973)。彼は40年間、床から天井まで、足の踏み場もないほど溜め込まれたゴミだらけの部屋で過ごした。天涯孤独で、友人や訪ねてくる人もほとんどおらず、掃除や皿洗いなどの仕事を転々としながら、貧しい生活を送っていた。しかし彼は、誰かに見てもらうこと、何らかの栄誉・名誉を得ることを一切考えることなく、ゴミ部屋の中でひっそりと、タイプライターで清書された15冊、15000ページを超える「世界最長」の原稿、そしてそれらに添えられた数百枚の挿絵、中には3メートルを超える長大なものをも含む、『非現実の王国として知られる地における、ヴィヴィアン・ガールズの物語、子供奴隷の反乱に起因するグランデコ–アンジェリニアン戦争の嵐の物語(The Story of the Vivian Girls, in What is known as the Realms of the Unreal, of the Glandeco-Angelinian War Storm, Caused by the Child Slave Rebellion)』(通称、『非現実の王国(In the Realms of the Unreal)』)など、自分だけの幻想の世界をひたすら生み出し続けていたのである。
ヘンリー・J・ダーガーの生い立ち
ダーガーは1892年、シカゴで生まれた。当時52歳だった父親はドイツからの移民で、洋服の仕立屋をやっていた。母は30歳だったが、ヘンリーが4歳の時、妹を産んだ際の感染症によって亡くなってしまった。妹はそのまま養子に出された。ヘンリーは妹の顔も名前も知ることなく、生涯会うこともなかった。父は足が不自由だったにも関わらず、ヘンリーに対して読み書きなどを熱心に教えていた。地元のカトリック教会付属の小学校に通う中、成績優秀だったヘンリーは、3年生に飛び級するほどだった。しかし彼が8歳になった時、父親は体を悪くしてしまった。ヘンリーは孤児院に預けられることとなり、そこから地元の公立小学校に通い始めた。アメリカ南北戦争に対して関心が深かったヘンリーは、教師と論争するほどだったというが、クラスメートたちからは「クレイジー」とあだ名をつけられ、孤立してしまっていた。さらにヘンリー自身に感情障害の兆候が見られたということから、イリノイ州の障害者施設に移るはめとなってしまう。施設では規則正しく、また、周囲からのいじめがない平穏な生活を送っていたものの、父親の死の知らせを受け取った17歳のヘンリーは、自分を助けてくれる人はもう誰もいないと悟り、施設からの脱走を試みる。数度の失敗の後、およそ100キロ歩き続け、生まれ故郷のシカゴに戻る。それからのヘンリーは、病院の清掃や皿洗いなどの下働きを71歳まで続けていた。
コミュニケーションをとることが苦手だったヘンリー・J・ダーガー
当時のヘンリーは仕事の傍ら、毎日のようにカトリック教会のミサや聖体拝領に通うほど、信仰篤い生活を送っていたものの、人と全くコミュニケーションを取ることができない状態だった。たまに口を利くとしたら、自身がこだわり、事細かく記録し続けていた気象の話を一方的にするばかりだった。そのため、ひび割れた眼鏡を絆創膏で留め、くるぶしまで届く軍用コートを身につけていたヘンリーは、周囲の人から、「みすぼらしいホームレス」にしか見えていなかった。そして、ひとり暮らしの孤独からか、声帯模写が得意だったというヘンリーは、部屋の中で、あたかも誰かが訪ねてきているかのように、何時間にも渡ってひとりでにぎやかに話したり、歌ったりしていることもあったという。
このような「孤独な人」はヘンリーに限ったことではない。我々がイメージする、ひとり暮らしの「変わり者」や「ゴミ屋敷の主」も、彼同様の奇矯な振る舞いをしている。そして、こちらが親切に笑顔で挨拶しても、無視される。時にはいきなり怒鳴りつけてくることさえある。それゆえに、「なるたけ関わりたくない」と避けられてしまうこともあるだろう。もちろんダーガーは、近所の人に攻撃的な振る舞いをすることは一切なく、寝る時間も惜しんで、そして寝る場所もないほど溢れ返った、トラック2台分にも及んだとされる大量のゴミに埋もれながら、自らのイメージ世界を構築し続けたのである。
ヘンリー・J・ダーガーは文章や絵について誰かから学んだわけではなかった
『非現実の王国』は、彼が好んだアメリカ南北戦争、そしてハリエット・ビーチャー・ストウの『アンクル・トムの小屋』(1852)などに見る、黒人奴隷の解放。また、彼が生きた時代が2度の大きな世界大戦、その前後に展開した様々な国際紛争のさなかであったこと。更に彼自身が熱心なカトリックの信徒だったことから、新約聖書に登場する、ヘロデ王による幼児虐殺の記述にも影響を強く受けていたのだろう。永久に終わることのない血塗られた虐殺や拷問、それらに抵抗するための戦闘が繰り広げられている。その主人公は、彼が好んだフランク・バウムの『オズの魔法使い』(1900)、チャールズ・ディケンズの『オリヴァー・ツイスト』(1838)、『クリスマス・キャロル』(1843)、『二都物語』(1859)、ヨハンナ・シュピリの『ハイジ』(1880)などのように、親を失った子どもを主人公とした物語を反映した形で、「ヴィヴィアン・ガールズ」という名前の、可憐で信仰心が篤く、それでいて勇猛果敢に大人たちと戦い続ける両性具有の少女たちなのだ。作者のヘンリー自身も少女たちの敵、味方、あるいは従軍記者として『王国』の中に登場する。
ヘンリーは、文章はもちろんのこと、絵を誰かについて学んだことはなかった。全ては、天性の美的感受性に加え、自分なりに試行錯誤して編み出した方法で描いていた。
ヘンリー・J・ダーガーの世界観はどのように生み出されたのか
最初にヘンリーは、ゴミ漁りで見つけ、自宅に持ち帰ってコレクションし、時に手製の額縁に収め、飾りつけてさえいた、読み捨てられた新聞、ペーパーバッグ、雑誌、漫画、広告に登場する少女の写真やイラストを用い、色を塗ったりなど、少し修正を加えて紙に貼りつける「コラージュ」の手法で自身の世界を作り出していた。その後、お気に入りの写真やイラストをなぞり、カーボン紙を用いてコピーする方法を採った。また、高価になるため、厳選に厳選を重ねた図像だったのだが、1944年以降は、ドラッグストアの写真カウンターにお気に入りの図像を持ち込み、複写や引き伸ばしを試みてもいる。こうした彼のあくなき努力、常に自分の世界を構築するために重ねた工夫によって、ダーガーの絵は自身の独特な世界観とあいまって、赤・黄色・緑など、カラフルに彩られ、「残酷さ」と同時に、夢見るようにロマンチックな雰囲気に満ちた、漫画・絵巻物・アニメーションを合作したような一大パノラマを展開したのである。
また、ヘンリーが両性具有の「少女」たちを主人公とし、そしてその少女たちが「子供奴隷」として残酷な目に遭う。そしてそれを彼女たちは自身の有する機智や機転によって逃れ、打ち負かしていく設定にされていたことは、ヘンリー自身が終生癒されることがなかったトラウマが大きな要因となっていると解釈されている。それは、名前も行き先もわからず、一生会うことも叶わなかった、生き別れの妹への愛着や憧憬、それと同時に、母親の突然の死をもたらしもした妹の誕生に対する憎しみや怒りがないまぜになったものが彼自身の意識を支配していたからである。しかも彼の場合は、児童期から思春期まで、十分な教育を受けることができなかった。また、彼が抱えたトラウマや混乱ゆえに、幼い頃に顕現したとされる感情障害や、周囲に「クレイジー」に映る言動や振る舞いを十分に癒すためのカウンセリング、或いは何らかの精神療法などのメソッドが当時のアメリカには存在しなかった。こうしたことから、彼は彼独自の「癒し」「前に進む」「生きる」方法として、誰にも教え導かれることなく、彼自身の幻想の世界を生み出し、補強し続ける人生を歩んだのだった。
ヘンリー・J・ダーガーは正常な人とは見られていなかったかもしれないが…
正確な年代は不明だが、1930年代に『王国』の執筆を終えた後、ダーガーは即座に、ノート16冊分に及ぶ、その続編とも言える、『シカゴにおけるさらなる冒険:いかれた家』に取りかかる。更に1957(昭和32)年からは、『正しいときもままあるものの、天気予報士の予測に反した、寒さ暑さ、雨、雪、吹雪、夏の熱波と寒波、嵐や晴天、曇天の、天気記録』と題した、天気予報と実際の天気を比較した、ノート10冊分の日誌をつけ始めた。1963(昭和38)年に、老齢のため、肉体労働に耐えられなくなり、仕事を辞めることになってからは、『我が人生の歴史』を書き始める。8冊5084ページのうち、自身の人生の回想は最初の206ページのみで、残りは、架空の竜巻「スウィーティー・パイ」の記述に費やされていた。
このようなヘンリーの行動は、傍目には、「現実と空想との区別がつかない」、または「辛い現実から逃げている」ようにしか見えないかも知れない。しかしそれは「現実と空想との区別がついている」、そして「辛い現実から逃げていない」とされる「我々」が「正常」であるという、ある種の思い上がりゆえのものだ。しかもそれは、幼少期のヘンリーに対して、「クレイジー」とあだ名した人々同様の「尺度」でしかないのではないか。彼は普通の人々のように、「人」とコミュニケーションを取ったり、「自分」の「過去」を振り返るのではなく、自分の構築した世界こそが「全て」であり、その世界とだけコミュニケーションを取り、その世界こそが彼の過去であり、現在であり、未来、すなわち、アイデンティティだったのだ。
ヘンリー・J・ダーガーが生み出した数々の作品が、彼の死後に遺品で発見された
とはいえ、彼は1972(昭和47)年11月に、階段の昇り降りができなくなるほど衰弱していたことから、住み慣れた部屋を出て、カトリック系の老人養護施設に移ることになった。その際、部屋の大家だった写真家で工業デザイナーでもあったネイサン・ラーナーに対して、自分の部屋の全てを処分するように頼んでいたと言われている。ヘンリーの死後、部屋を片づけたネイサンは、ゴミやがらくたの中から、膨大な量に及ぶ、「ヘンリーの世界」を見出したのだ。
ヘンリーは今、イリノイ州デ・プレインズのオール・セインツ墓地に眠っている。墓碑銘には、「子供たちの守護者」と刻まれているという。
ヘンリーの写真は81歳の生涯の中、たった3枚しか残されていない。2000(平成12)年にヘンリーの部屋は取り壊されてしまった。しかし彼の全著作と挿絵26枚は、その翌年に、ニューヨークのアメリカン・フォークアート美術館内に開設されたヘンリー・ダーガー・スタディー・センターに移された。そして現在、国内外の多くの人々によって、さまざまな研究調査がなされている。
最後に…
元祖インテリヤクザで自身の組を解散した後、俳優・作家・映画プロデューサー・家相研究家としてマルチに活躍した安藤昇(1926–2015)は秘書を勤めた向谷匡史に対して、「人の一生は、あれこれ思い悩むほど高尚なものでもなければ、絶望して命を絶つほどつまらないものでもない。死にたくないから生きているだけのことで、生きること自体に意味なんかないと思っている。だけど、かく生き、かく死んだという足跡は残る。ヤクザだろうが、政治家だろうが、勤め人だろうが、それは同じだ」と語ったという。冒頭に紹介した、超一流の職業作家として名を馳せた太宰治も夏目漱石も、「かく生き、かく死んだという足跡」を残していた。ヘンリーも、本人が望んでいたか否かはともかく、第三者に「足跡」を発見され、後世に継承されることとなった。筆者は「ヤクザだろうが、政治家だろうが、勤め人だろうが」、人が生きた一生の「足跡」の重みは「同じ」であると考える。たとえ太宰や漱石、ヘンリーのような「原稿」「自画像入りの絵はがき」「絵画」などの「実物」でなくても、IT技術が日進月歩で進んでいる昨今だ。デジタル化したデータと、それを容易に検索できるデータベースを構築し、人ひとりが生きた痕跡を収集・整理し、保存するための専門の公的機関が日本国内につくられてもいいのではないだろうか。そうした「足跡」は、その人自身が行なった何らかの「業績」を証するばかりでなく、その人が生きた「時代」の空気を色濃く写した、歴史の貴重な証言者でもあるからだ。そのような無数の人々の遺物を、未来の人々に広く見て欲しい。そして知って欲しいと痛切に思う。