乗り合わせた電車の網棚に、あるいはコインロッカーの中に、利用したスーパーのトイレの個室に、遺骨が入った骨壺が置き忘れられている・・・蓋を開けて中を確認しようものなら、ぎょっとするような出来事だ。本来お墓に納骨されているはずのものが、身近な場所に「忘れ物」として残され 警察に遺失物として届けられる。そんな「遺骨の置き去り化」がここ数年増加しているらしい。「死」に対しての我々の意識に、いったい何が起こっているのだろうか。
「遺骨の置き去り化」とは
遺骨は火葬後に丁重に供養して、お墓の中に納められる。それがごく当たり前のことであり、遺族が負うべき責任であると考えるのはごく自然なことだ。
しかし最近、遺骨をお墓に納めることなく 骨壺ごとどこかへ「意図的に置き忘れる」ケースが増加しているという。過去には西日本だけでも40件近く 遺失物として遺骨が警察へ届けられたこともあるようで、その数は詳細に明らかにはされていないものの 年々増加している。
発見される骨壺は、火葬場を特定できるような書類や戒名札などが抜かれており、その遺骨が誰なのか、誰が置き去ったのかが分からないようになっている。届けられた遺骨は警察署で保管されるものの、ほとんどのケースでは身元が特定できず 地域の寺で無縁仏として納められる。
金銭面での原因――現代人とお墓について
一体なぜこのような行為が増加しているのだろうか。その原因の一端には、葬儀における金銭面の問題がある。
葬儀の規模縮小はもう現代においては珍しくない風潮だ。少子高齢化の進行、都市部での核家族化、そういったことにより 年々葬儀は一層簡素に、お金や無用な手間をかけずに行いたいという意識が高まっている。同時に、日本における「墓」の在り方も少しずつ変わっている。
遺骨を納める墓を、金銭面での理由で建てることができない。あるいは、先祖代々の墓を守ることができない・・・・・・特に身寄りのない老人などの状況を鑑みれば 理解できないことはない。墓を購入する場合では 少なく見積もっても100万円程度かかることがあり、年間を通してみてもその維持費、修理費、墓地の借用代など 確かに費用はかさむ。その高額な金額をすぐに工面するのは、特に貯蓄が多くない世帯には難しいだろう。
墓を建てず、遺骨を自宅で保管している世帯もかなりある。しかしそれもままならなくなって、「供養したい、しかし自分ではどうすることもできない」と悩んだ結果、遺骨の置き去りに繋がるケースがあると言われている。
現代日本人と「死」の在り方
もちろん金銭面での問題も原因であろうが、筆者はこの現状に現代人の死生観の変化が表れているのではないかと考えている。
つまり、「家」という血縁の繋がり、ご近所さんなどの地縁の繋がり、それらがずいぶんと薄れてしまったということだ。
これは葬儀の簡素化にも密接に関係していると思われるが、死後の故人との交流(お墓参りであったり、お盆であったり、死後に行われる行為)に以前ほど重きを置かず、一族の繋がりの中に自分を位置づけるのではなく自分ひとり、個人の単位で物事を処理するようになった気がするのである。
遺族が遺骨を意図的に忘れていくなど罰当たりな気もするが、遺失物として預かっている警察には幾らか同情的な意見もある。何かしらの手段で捨てるよりもこうして遺失物としても届けられれば、少なくとも無縁仏として経をあげてもらうことはできるからだ。
確かに生きるのにも足りないようなお金を、死者のために使う必要があるのか、という考え方もできるし、その答えは人によって様々であろう。それでも「お金がなくて大切な人の遺骨を置き去りにするしかない」という現状を、「仕方がない」という言葉で正当化してしまって良いかというとそこには疑問が残る。このような遺骨との折り合いのつけ方は、あまりにも虚しいと思ってしまうのは、筆者の身勝手であろうか。