北関東のある村に居住していたときに、先祖代々そこに住んでいる知り合いが近隣の集落ではまだ土葬することもあると言っていた。1980年代の半ばころの話だ。日本でも土葬は合法的な埋葬であることは知っていたので(現在でも、土葬は合法的な埋葬である)、それ自体にはそんなに驚かなかったが、当時は「埋め墓」と「参り墓」の二つに分ける両墓制だったという話には衝撃を受けた。ちなみに両墓制とは埋葬する場所とお参りする墓を分ける葬制である。
土葬が一般的だった時代・地域では、衛生上、遺体は山中に埋められていた
埋め墓は厳密には墓ではなく単に遺体を埋める場所であり、一般的には人里から比較的離れた山中だったそうだ。ふつう埋め墓には目印も墓標も置くことはなく、ただ埋める場所だったらしい。地域によっては、埋め墓はムラといったコミュニティが共同で利用する遺体処理場所だったり、別の地域では一族が所有する山林内だったりと多少の違いはあったようだが、共通するのは、遺体はできるだけ早く人里から離れた場所に運んで埋めてしまうということだ。
現在のように抗生物質など近代的な治療法などない時代である。感染症や腐敗で増える病原体が蔓延するのを防ぐ手立てとしては、きわめて理にかなった方法だったのであろう。そして、故人をしのぶために埋め墓に参拝するような執着は全然なかったようだ。
遺骨も遺体もないお参りのためのお墓
一方、拝むために建てられたのが参り墓である。参り墓は集落の中に建てられ、立派な石碑に一族の名が刻まれている。お彼岸やお盆に手を合わせるのは、故人の骨も何も入っていないこちらの墓だったのだそうだ。祖先の霊は自分たちの居住するところに戻ってきてくれるという霊魂に対する信仰心から、参り墓が集落の中に建てられたのであろう。
遺体が土に還り、木々を育て、生き物を育むというサイクル
少なくとも明治時代の前半までは、里山は主に薪炭林として使われてきたが、大規模な転作農業の一部だった地域もあったらしい。つまり、畑の地力が落ちてくると、畑をしばらく放置して里山に戻し、隣接する里山を開墾して畑にするというサイクルを、20~30年のスパンで繰り返すという壮大なスケールの持続可能な農作が行われていた。くだんの知り合いによると、そのような里山開墾の際に人骨が出てくることがあるが、はて、どこの誰の骨なのか誰もわからない。いろいろ記憶をたぐっても、「そういえば○○さんちの、ひい爺さんを埋めたのがこの辺だったような気がする程度のことしかわからないなんてこともあったとか。
この話を聞いて私は「エコだな」と感心してしまったのだ。何故かと言うと、それはエネルギーを使わずに遺体は土に還り、その土がまた野山や畑を育み、生き物を育むという循環の中に、人間もちゃんと組み込まれていたからである。
最後に…
厚生労働省の統計によると、現在の日本では亡くなる人の99%以上が火葬されている。
人間の体は有機物でできており、当然のことながら有機物を燃焼すれば、多かれ少なかれダイオキシン類が発生する。同省の平成10年の調査結果から、火葬で大気中に放出されるダイオキシン類の量は無視できないレベルの施設もある。それに加えて、大量のガスや化石燃料を使って一生を締めくくるのは両墓制に比べて環境に優しくないのは明らか。
昔のような両墓制に戻ることはできないにしても、もっと地球にやさしい人生の締めくくりがあってもいいと思ったのだが、どうだろうか。