現代の日本では、世帯ごとのご近所の付き合いは、昔に比べるとやはり希薄になったと言える。ご近所さんの葬式を町内会が手伝うことが少なくなったように、近くの家の事情にずいぶん疎くなったものだ。
私事だが、筆者がそんなことを考えさせられる ある出来事があった。仲良くしていただいてもう10年弱ほどになる 近所の男性が、私の知らないうちに亡くなって、もう2か月ほどが経っていたことを知った。
「くるみパパ」と我が家
我が家では犬を飼っている。元気いっぱいのやんちゃ坊主だが人見知り(犬見知り?)で、よその家の犬とはあまり遊びたがらない。そんな我が息子が、唯一と言っていいほど仲良くできる犬、それが近所の「くるみ」ちゃんだ。
くるみちゃんは12歳くらいのダックスフントの女の子。遊び下手な我が家の犬をいつも構ってくれ、散歩で筆者が彼女の家の前を通ると窓から尻尾を振ってくれる。たぶん我が息子にとっても、永遠に憧れのお姉さま、という感じだ。
その くるみちゃんを特に溺愛していたのが飼い主の男性で、筆者の家族は「くるみパパ」と呼んでいた。くるみパパはくるみちゃんを恋人のようにかわいがって、夜は一緒に寝るだとか、こうやって僕に甘えてくるんだとか、そんな自慢話を嬉しそうにしてくれた。
近所で一番の、いわゆる「イヌ友」。会えば挨拶や世間話をしたし、くるみパパの奥さんとも仲良くさせてもらっていた。くるみパパはあまり身体が丈夫ではなく、どうも何回か入退院と手術を繰り返しているようだった。
しばらく見かけないと思ったら、すっかり痩せた姿でくるみちゃんと散歩しているところに出くわしたりもした。それでも いつもニコニコしていたので、筆者たち家族は 早く元気になると良いね、といつも話していた。
またしばらく くるみパパを見かけない日が続いた頃、筆者のもとに、実家暮らしの妹からメールで連絡がきた。
「くるみパパ、亡くなっていたみたい」
くるみパパが亡くなったことを知った日
「犬の散歩をしていたらね、久しぶりに くるみちゃんと くるみパパの奥さんに会って。ご主人の具合はいかがですか、って聞いたの」
「そうしたらね、『もう亡くなったのよ』って。2か月くらい前だって」
筆者が実家を離れたのち、くるみパパの奥さんがいつも張り切って手入れしていた庭は荒れていき、ポストにも新聞が溜まり始めたそうだ。
家族が心配していたある日、庭には手入れが入り新聞もなくなって、久々に くるみと奥さんが散歩をしていたので声をかけると、そう知らされたらしい。
お別れも何もできず亡くなられていたこともショックであるが、それからすでに2ヵ月が経っていたことが、筆者にはたまらなくやるせなかった。
普段あれほど仲良くしていても、当然こういったときには 外部の人間である筆者たちには何も分からないし、当然知らされることもない。
それが仕方ないと思う反面、やはり淋しいと感じた。現在、何かできることはないかと考えを巡らせてはいるが、もうかなり時間も経っており、未だ思いついてはいない。
最後に
人口の減少や少子高齢化、核家族化などに伴って葬儀の簡略化や規模の縮小が進んでいる今、「ご近所さん」という存在の位置づけは非常に難しいものがあるだろう。
先述したように、以前は近所で行われる葬式を町内会ぐるみで手伝ったり、一番に駆けつけたりということが頻繁に行われた。しかしその名残はもうほとんど見かけられない。
今回の出来事を通して、筆者は自身がただの「他人である」ことを痛感し、ひどく落ち込んだのである。
今後、あまり考えたくはないが「面識のある人が気が付けば亡くなっていた」というようなケースは増えるのではないかと思う。それは仕方のないことであるとも言える。それでも、当たり前のように毎日会って 仲良くしていた人が、知らない間にこの世を去っていたという衝撃を久々に体感した。
突然訪れる人の死に、心の準備とまではいかなくても、やはり少しでも苦い思いの残らないよう、毎日の出会いを大切にしたいものだと常々思う。