「先祖伝来の墓と言っても、せいぜい2世代、3世代」、「昔からのものではないので、別にとっとと撤去とかしてもいいのかな」などと意見を述べたという。
人それぞれの価値観やさまざまな事情があることから、誰も古市氏の考えの是非を云々することはできない。しかし、かつて放置され、場所を転々とした鯨塚に対して、その存続を心配し、きちんとお祀りした人々がいた。
箱崎の鯨塚とは?
その鯨塚こと、高さ1m、幅25cm、側面20cmの自然石でできた「鯨ノ標(くじらのひょう)」は現在、福岡市東区箱崎2丁目の網屋(あみや)天満宮の隅に位置している。
磨耗した石の裏面には、「明治廿一年十一月廿□(判読不明) 箱崎浦」と記されている。当時の新聞によると、明治21年(1888年)11月23日に、陸からおよそ9町(約981m)ほどの沖合に、普段は見かけない鯨が2頭泳いでいた。その日は暴風雨だったにもかかわらず、我先に先鞭をつけようと、漁師たちは大騒ぎだったという。そして1頭は逃したものの、漁師総出で捕まえた1頭の鯨は長さ7間(約12.6m)、重さは15000斤(9000kg)、更にその対価は、肉の他に脂・骨・臓器などを含めて、1800円にも及んだ。明治20年代の1円は、現在の3800円ほどの価値があったのだが、それを200戸の漁家に割り当てると、1戸当たり9円の配当となった。その高配当は、この地域始まって以来のことだったという。それに欣喜雀躍した漁師たちは、大漁祝いに操り人形の芝居を興行した。更に芦屋(あしや。福岡県遠賀郡芦屋町)の役者を雇い、2日間の興行を打った。あまりの喜びぶりのため、漁民たちは鯨からもたらされた「恵み」を10日あまりで使い尽くしてしまったということである。
箱崎はどんな町だった?
箱崎は福岡市の中心部・天神から北東約4km、博多駅から北に約4km、福岡空港からは北西4km、九州自動車道・福岡インターチェンジから南に約4km、博多湾中央埠頭から北東約3.5kmと陸・海・空の交通拠点に近接した場所である。1940(昭和15)年に福岡市に編入されるまでは、表糟屋(おもてかすや)郡に属していたが、唐津街道の「筑前二十一宿」のひとつだった。博多ほどの大店は存在していなかったものの、創建は923年と伝えられる筥崎宮(はこざきぐう、筥崎八幡宮)を中心に据える形で、宿場町として大いに栄えていた。1911(明治44)年に九州帝国大学(現・九州大学)が設置され、文教地区としても知られてきた。
このような箱崎は、江戸期から明治時代においては、農業・漁業が盛んな土地だった。筥崎宮で毎年1月3日に「玉取祭」(玉せせり)という祭りが催されているが、農村を意味する「オカ」と、漁村を意味する「ハマ」とで玉を奪い合い、「オカ」が勝つと豊作、「ハマ」が勝つと豊漁になると言われている。その祭りは、かつての箱崎という「場所」のありようを現在に伝えるものと言える。
漁業が盛んだった箱崎
「海の町」としての箱崎に注目すると、例えば仙厓和尚(1750〜1837)が「箱崎や唐土(もろこし)かけて秋の月」と歌に詠んだり、1789(天明9)年1月16日に、「紅毛(こうもう)画家」として知られる司馬江漢(しばこうかん、1747〜1818)が長崎に赴いた帰途、福岡に立ち寄った。筥崎宮に参詣した後、箱崎浜から見える海の中道、玄界島、志賀島などを愛で、博多湾を「よき景色」と褒めたと伝えられている。今日の箱崎2丁目周辺の網屋町(あみやちょう)一帯に住んでいた漁民には漁業税などはなく、その代わりに、福岡藩が長崎警備や海防守備のため、藩兵を輸送する際に、水夫の任に当たっていた。漁獲物には、コノシロ、ボラ、アサリ、カキ、ナマコ、タコなどがあった。時を経て、1924(大正13)年当時には、アンコウ、タイ、キスが捕れていたという。
鯨に関して言えば、玄界灘そのものは鯨の宝庫だった。冬には、鯨の大群が対馬暖流を南下し、春になると北上する。その鯨を追う男たちの集団「鯨組」が、五島・平戸・壱岐・対馬などに存在した。福岡県内では、小呂島(おろのしま)・姫島・地島(じのしま)・大島などで鯨が捕れたという記録が残っているが、箱崎の方まで鯨が来ることはなかった。それゆえ、地元の漁民たちが驚き、なおかつ喜びのあまり、ほんのわずかの期間で配当金を散財してしまっても致し方なかったと言えるだろう。
鯨塚が守られてきた経緯
「鯨ノ標」に話を戻すと、摩耗して一部判読できないが、明治21年の11月20何日かに、迷い鯨への感謝と供養のため、背骨の一部を埋めて、九州大学の農芸化学新館(当時)の裏にあった電車道沿い(現・地下鉄箱崎九大前と貝塚駅の中間点に存在した松原の中)に碑を建てていた。しかし第2次世界大戦を経て、戦後は都市化が進み、周囲が埋め立てられてしまった。その結果、さかんだった漁業も、かつてほど行われることがなくなった。そのため、塚は忘れられ、長らく放置されたままだった。1950(昭和25)年に、西鉄貝塚線の複線化工事の折に塚が発見された際、九州大学水産学科(当時)の安元幸一郎教官・内田恵太郎教授によって、塚は大学本館中庭に移され、祀られることになった。その際、埋めたとされる鯨の骨は見つからなかったという。その後、農学部の建て替えに伴って、農学部2号館と3号館の間の庭園に移された。塚は「安住の地」を得たかに思われたが、1990(平成2)年6月に、箱崎キャンパスが手狭になったということから、大学移転計画が持ち上がることになった。そうなると塚はどうなるのかと地域の古老たちが心配し、大学と掛け合った。その結果、1994(平成6)年1月に、漁師の氏神である網屋天満宮境内にお祀りすることになったという。
観光スポットでもなんでもなかった鯨塚
現在「鯨ノ標」は、竜宮神社・恵比須神社・愛宕神社・金毘羅宮・三隅神社、そして聖観音を祀る網屋天満宮の片隅にある。もともと江戸期に、唐津街道の御茶屋(藩主の別館)があったというが、海の守り神である恵比須など、小さな境内に祀られた神々が、箱崎の「漁師町」としての繁栄ぶりを色濃く物語っている。
九州大学の移転問題に伴う、「鯨ノ標」がどうなるのかという問題が起こった頃、既に箱崎は「漁師町」ではなくなっていた。しかし塚の存続を心配した「箱崎漁業組合」の古老たち、更にはそれ以前の、九州大学構内に塚を移すように決めた教授たちは、塚に埋められた鯨、そして塚を作った当時の漁師たちへの敬意があったからこそ、塚を守ろうとした。たくさん人が訪れる、ある意味「観光スポット」的な塚ではないにせよ、鯨塚そのものは今も存在しているのだ。
最後に…
確かに彼らの思いや行為は、合理的に物事を判断する人たちからすると、「昔の人だから」と片づけられてしまうものかもしれない。そして、古く窮屈なしがらみやしきたりに、死んでまで縛られたくないという考え方もある。若い古市氏のように、昔といっても大昔からあるわけではないのだから、撤去しても構わないのではないか、と思う人々もいるだろう。ただ、そうした「新しい」価値観や生き方によって、日本人が古くから、身近なものに心を通わせ、鯨のみならず、さまざまな動物・鳥・魚などの生き物、そして筆・人形・時計・印章・扇・針・はさみのような、日常我々がよく使う道具に対してすら、供養や慰霊のための儀式を執り行ったり、碑を建ててきた。こうした文化を旧弊なもの、非科学的なものとして切り捨て、忘れ去られ、朽ち果てた塚などを取り壊してしまうようなことがないことを、切に祈るばかりである。
参考文献
■「鯨騒ぎ」(福陵新報 1888年11月23日号)
■「箱崎の鯨」(福陵新報 1888年11月27日号)
■「操芝居」(福陵新報 1888年11月29日号)
■「箱崎村の芝居」(福陵新報 1888年12月8日号)
■『博多湾鉄道沿線名勝案内』1924年 博多湾鉄道汽船株式会社
■『瀬戸内海周辺の鯨塚の研究』進藤直作 1970年 生田区医師会
■吉原友吉「鯨の墓」東京水産大学(編)『東京水産大学論集』第12号 1977年3月 東京水産大学(15−101頁)
■鳥巣京一「『博多湾まよい鯨』について」福岡県地域研究所編『県史だより』1983年9月号 財団法人西日本文化協会(6頁)
■高田茂廣「鯨捕りの話」福岡地方史研究会(編)『福岡歴史探検 1 近世博多』1991年 海鳥社 (112−113頁)
■秀村選三「司馬江漢のみた松林と石炭」福岡地方史研究会(編)『福岡歴史探検 1 近世博多』1991年 海鳥社 (40−41頁)
■古田鷹治「鯨ノ標(鯨塚)〜福岡市東区箱崎〜」福岡県地域研究所編『県史だより』1993年5月号 財団法人西日本文化協会(2−3頁)
■『どうぶつのお墓をなぜつくるか ペット埋葬の源流・動物塚』依田賢太郎 2007年 社会評論社
■野口誠・梶返恭彦(編)「報告書:大学移転に伴う箱崎地区の変容と地域づくりに関する研究 1」2009年 財団法人福岡アジア都市研究所
■福岡市史編集委員会(編)『新修 福岡市史 民俗編 1:春夏秋冬・起居往来』2012年 福岡市