今年7月3日には、中国南部の広東省・三山(サンシャン)港から出航した貨物船に紛れ込んでいたと類推される毒蟻・ヒアリが発見されるほど、日々海外からの大量のコンテナが荷揚げされ、国際港としての役割を果たしている品川港がかつて、漁業で賑わっていた痕跡を見いだすことは、実に難しいことだ。
当時の品川は、港湾都市としてだけでなく、漁業も盛んだった
品川湾岸は、鎌倉時代〜南北朝時代末期ごろまでには既に、西国と東国をつなぐ港湾都市としての役割を果たしていたという。主に伊勢神宮を擁する大湊(おおみなと)などから出航した船、逆に伊勢神宮への年貢を運ぶために出航する船など、人々や物資の往来や交流が活発に行われていた。しかも入津する船に対して帆別銭(ほべつせん。港湾使用量)が徴収され、鎌倉の円覚寺などの造営費に充てられるなど、政治的・宗教的にも重要な拠点でもあった。
しかも港湾都市というばかりではなく、漁業も活気を呈していた。江戸期においては、漁業を生業とする人々が住む地域は「漁」ではなく、「猟」の字を用いる「猟師町(浦)」と呼ばれていたのだが、当時は南品川(宿)猟師町(品川浦)と、大井(村)猟師町(御林(おはやし)浦)の2つが存在した。これらは「御菜肴(おさいさかな)八カ浦」に数えられ、そこで捕れた魚は、幕府に献上する義務があった。1843(天保14)年の記録によると、コチ・ヒラメ・芝エビ・ハゼ・白魚・アイナメ・イカ・キス・ウツボ・イシモチ・小タイ・黒タイ・ボラ・サヨリ・カレイ・ホウボウ・赤エイ・サワラなどを四つ手網や手繰(たぐ)り、細網船などを使って釣り上げていた。また、赤貝・ハマグリなどの貝類もたくさん捕れていたという。更に海苔の養殖も、沖合で広範囲に行われていた。こうした豊かな漁場であったことから、南品川猟師町の場合、漁業に携わっていたのは、1695(元禄8)年当時は41戸だったが、1783(天明3)年には92戸、1828(文政11)年には135戸まで増加した。品川の二浦で漁師人口が増加したのは、「地つき」と呼ばれる漁村・漁港の前の海以外は、湾内の漁村の船であれば、どこで魚を取ることができる共同漁場だったことが大きい。
突如品川沖に迷い込んできた鯨。珍しいことであったため、将軍にも上覧された。
このような品川湾岸に、江戸市中を熱狂の渦に巻き込んだ「鯨」の珍事が発生した。1798(寛政10)年5月1日のこと、前日から続いていた暴風雨の影響から、体長9間1尺(約16.5メートル)、高さ6尺(約1.8m)にも及ぶ、1頭の大鯨が湾内に紛れ込んできた。品川湾岸は先に挙げたように、確かに多彩な魚が捕れる海だったが、紀州の太地(たいじ。現・和歌山県東牟婁郡太地町)などとは異なり、鯨の漁場ではなかった。そのため漁師たちは捕鯨経験が全くなく、最初はなすすべもなく、船を出して遠巻きに鯨を見ているだけだった。しかし漁師たちは勇気を奮い起こし、舷(ふなばた。船の側面部)を叩いたり、ホラ貝を吹いたり、大声を叫ぶなどして鯨を威嚇し、天王洲の内側まで追い込むことに成功した。焦った鯨が洲を超えて逃れようと跳ね上がったところ、逆に浅瀬に乗り上げてしまった。最終的に周囲を取り囲んだ大勢の漁師たちによって、鯨は仕留められた。
この出来事は江戸中に一大旋風を巻き起こした。当初鯨の死骸は岸からおよそ3丁(約327.6m)の沖合に繋がれていた。江戸市中はもちろんのこと、近郷からも多くの人々が品川湾岸に押しかけた。更に少しでも近くで見てみたい、と、漁民の船を借り上げ、間近で鯨見物を行う物好きもいるほどだった。この騒ぎは江戸城にまで伝わり、翌日には代官・大貫次左衛門の手代が検分に訪れ、漁民たちに鯨を、将軍の上覧に供するようにと命じた。
5月3日に漁師たちは、鯨の死骸を船尾に結びつけ、芝の浜御殿(現・浜離宮公園)まで運んで行った。そこで11代将軍・家斉(いえなり)が鯨を見て、長い間、感興に浸っていたという。その後、鯨は再び品川沖に戻ることとなる。再び「見世物」のように沖合に繋ぎとめられ、「将軍様御上覧の鯨」ということで、ますます多くの人々が集まった。「鯨ブーム」に便乗した格好で、鯨を描いた手ぬぐいやうちわが売り出されたり、鯨をモチーフにした浮世絵が描かれたりするばかりではなく、「品川の沖にとまりしせみ鯨 皆みんみんと飛んでくるなり」と狂歌に詠まれたり、滝沢馬琴の『鯨魚尺品革羽織(くじらじゃくしながわばおり)』、十返舎一九の『大鯨豊年貢(おおくじらほうねんみつぎ)』など、売れっ子の戯作者が作品化するほどまでの盛り上がりを見せていた。
腐り始め払い下げられた鯨は、その頭部が利田神社に埋められ石碑が建てられた
しかし鯨はだんだん腐り始め、品川湾岸にまでその臭気が広がってきた。漁民たちは鯨を解体することを決めた。当時の幕府の取り決めにおいては、普段捕鯨を行っていない地域で鯨が捕れた場合、村役人の検分を受けた後、入札によって払い下げられることになっていた。それに従い、宇田川町(現・港区)の佐兵衛が胴体部分を金41両3分で落札した。そして残った頭部の骨を現在東品川1丁目に位置する利田(かがた)神社境内に埋め、石碑が建てられた。当時の利田神社は歌川広重の浮世絵、『名所江戸百景 第83景 品川すさき』(1856)に描かれている。小さな鳥居や本殿のすぐそばには青々とした海が迫っており、物流の港としても、そして漁場としても繁栄していた品川の往時を偲ぶことができる。
現在の石碑は1974(昭和49)年に改修されたものだ。経年劣化による表面の剥落が顕著だが、俳人の谷素外による、「江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨」の句が彫られている。
鯨の絶命の様子が記載された記録も残っている
「寛政の鯨」は享保(1716〜1736)と文化(1804〜1818)年間の2度、お目見えした「象」、「文政の駱駝」(1821)同様、江戸市中の多くの人々に衝撃を受けた「生き物」だった。当時の大騒動が終わってからも、浮世絵師の勝川春亭(?〜1824)が『品川沖之鯨 高輪ヨリ見ル図』(制作年不明)や、歌川芳藤(1828〜1887)が『品川 くじらの図』(1847〜52頃)を描くなど、江戸の人々の心の中に、鯨出現のインパクトは忘れ去られることなく、生き続けたのである。
日本最古の捕鯨専門書とされる『西海鯨鯢記(さいかいげいげいき)』(1720)に、捕獲された鯨の絶命の様子が詳細に記述されている。
「死セントスル時身ヲノシ大息ヲツキ一声嗷テ舟ヲ負ナカラ二三反舞コト茶臼ノ如シ。廻力喉ゴロゴロト鳴テ息絶ス。」
何故、鯨の石碑が建てられたのか
歴史民俗学者の森田勝昭は、当時の捕鯨者が耳にしたであろう鯨の断末魔は、単なる筋肉の収縮や痙攣ではなく、仏のもとへ生まれ変わる「大往生」であり、人間の臨終や死と重ねられていた。彼らは鯨の「苦痛」に共感し、捕殺を人間の理性の勝利ではなく、不可避の罪(業)ととらえ、捕殺行為そのものを「殺生」とみなしてもいた。その結果、捕鯨者は捕獲を喜ぶと同時に、捕獲行為そのものを抑制する心理的メカニズム、そしてその「抑制」を物理的に「保障」する、鯨のための「死後儀礼」が社会的・文化的に整えられていたと論じている。
従って、利田神社に祀られた鯨塚、更に長らく続いた江戸の鯨ブームは単に江戸の町人たちが、物珍しい珍奇な生き物に熱狂したことばかりではなく、捕鯨業を生業とし、鯨を知り尽くした地域の人々が抱き続けていた鯨への共感や感情移入と根元的に同じ思い、鯨の命に対する「共感」の思いが存在していたのだと推察される。殊に、江戸っ子の意地をかけて、実戦経験が全くなかったにもかかわらず、勇猛果敢に鯨に挑み、捕殺した品川の漁民たちは、「成敗してやった!」という、「奢り」ではなく、生き物としての鯨に対して最大限の敬意を払っていたからこそ、競り落とされて残った頭部の骨をそのまま放置することなく、鯨塚を建てたのである。
その後の品川沖での漁業
品川の漁業は、幕末期に、外国からの脅威に備えるための台場築造によって、多量の魚を収穫することができる地引網が使用不可能になる。また、明治に入ってからは、巨大な外国船舶の頻繁な往来、更には目黒川流域で勃興した重化学工業などによって、回遊魚類が著しく減少することになった。その結果、明治20年代(1887年〜)以降、大多数の人々が漁業を諦め、他業種への転業が相次いだという。
品川湾岸での漁業が廃れて100年以上経過した現在、魚を獲る海としての品川、更には鯨塚の存在すらも忘れ去られてしまっている。だが、東品川の利田神社に鯨塚がある、ということが自治体や地域の人々によって記録され、日々維持され、更に次世代に継承されている。その地道な試みによって、「今」の我々と「当時」の人々とは、価値観や生き様、思想や境遇が全く異なるものであったとしても、「当時」を振り返ることができる。それによって「温故知新」ではないが、最終的に自分、そして自分が今いる「場所」を「知る」ことにもなる。たとえ我々は今、鯨をマグロや牛肉のように頻繁に食べることがないにしても。
参考文献とホームページ
■東京都品川区口碑伝説編集委員会編『品川の口碑と伝説』1958年 品川区教育委員会
■山本富夫「東京今と昔:北品川利田神社の珍しい鯨塚」『自警』第59巻 10号 1977年 自警会 (156−157頁)
■品川区教育委員会編『品川の歴史』1979年 品川区教育委員会
■森田勝昭『鯨と捕鯨の文化史』1994年 名古屋大学出版会
■品川区教育委員会編『品川区史料 7:石塚』1994年 品川区教育委員会
■品川区教育委員会編『しながわの史跡めぐり』1997年 品川区教育委員会
■中村生夫『日本人の宗教と動物観 殺生と肉食』2010年 吉川弘文館
■平川敬治『魚と人をめぐる文化史』2011年 弦書房
■柘植信行「中世の品川宿」品川区編『品川区史 2014 –歴史と未来をつなぐまちしながわ』品川区 (274−277頁)
■坂本道夫「東海道と品川宿」品川区編『品川区史 2014 –歴史と未来をつなぐまちしながわ』品川区 (278−281頁)
■「東京港大井ふ頭(都用地内)において確認された『ヒアリ』について」2017年7月9日『品川区 ホームページ』
■「東海道品川宿のはなし 第8回」2012年8月7日『品川区 ホームページ』
■「名所江戸百景 第83景 品川すさき」『東京都立図書館 ページ』