先日、私が幼い頃から尊敬していた叔父が亡くなりました。享年77歳でした。学歴やら社会的地位やらを云々する意図は無いのですが、叔父は有名大学を卒業後、大手メーカーに勤務し、主に海外畑を歩んだ人でした。五、六か国語の会話をこなし、現地の工場長などを歴任しました。遺族らの選択なのか、遺言にそうあったのか定かではありませんが、そんな輝かしいサラリーマン人生を送った叔父の葬送方法は海洋散骨でした。
お墓参りに行きたいと考える人もいるかもしれない
大きな企業組織に自身の半生を捧げた経験の無い私にはよく分かりませんが、もし叔父のお墓が建てられていたならば、墓参りに訪れる人たちはそこそこ居るのではないかと考えてしまいます。
叔父という人間の足跡も、遺骨と共に海の中に散ってしまった様な気がして、私は今も何と無く呆気に取られてしまう事があります。
人間の一生の儚さとでも言いましょうか、財も地位も死後の世界には一切持って行けない様な…。
お墓に対する考え方が変わってきている
処で、今は海洋散骨や樹木葬など自然葬が注目されているそうですね。墓地不足の問題も背景にあるのかもしれませんが、少子高齢化、核家族化が進む我が国では相続不要の傾向が顕著になり、こうした自然回帰をもとにした供養スタイルに関心が高まっているとか…。
これは、葬儀関連の大手企業が実施したアンケート調査の結果なのですが、今は「自分のお墓を持ちたい」という人よりも「自分のお墓なんて要らない」と考える人のほうが多いらしいです。つまり、自分と言う人間が生きていたという証を残そうとしない風潮が広がりつつある訳です。何だか時代が
すっかり変わってしまったという感じがいたします。
最後に…
以前、パリの地下に在るカタコンブの一部の写真を見た事が有ります。フランスだけでなくヨーロッパにはこうした地下墓地が多いらしいですね。ほぼ整然と並ぶ人骨が印象的でした。各々には名前も身元も分からないものが多いとか…。
「脚光を浴びる一生を送った人も、地味に生きた人も皆同じ人間」。カタコンブの写真の記憶は、つい私にそんな事を語りかけます。「特別な人間など居ない」との想いを抱く一方で、人それぞれには掛け替えの無い人生が有ったのも事実。
そう言えば、「アパートの鍵貸します」などの作品で有名なアメリカの映画監督、ビリー・ワイルダーのお墓には、「NOBODY’S PERFECT」(完成された人間など誰も居ない)との碑文が在るそうですね。