去年11月に人形供養祭というものに初めて参加した。理由は自宅にある人形やこけし、ぬいぐるみなど、ゲームセンターでゲットしたものも含めると相当数になっていたからである。
最近はごみの分別にも四苦八苦する。特に燃えるゴミと燃えないゴミがひとつとなっている人形は厄介である。「当然目玉は燃えないゴミなのでくりぬいてから捨ててください」などと言われてもやれっこない。
そもそも人形はヒトガタ、つまり自分に降りかかってくる災いを人形が身代わりになってくれる意味合いが強いのだ。また、幼少の頃、枕元に置いて抱っこしながら寝についた人も多い事だろう。そのような愛着のある人形をどうして町のごみと一緒に捨てられよう。
400件の申込みと5400体の人形
私が初参加した人形供養祭は6回目を迎えており、申し込み400件、人形の数は5400体以上にも上った。
参列した檀信徒はご焼香をして人形への回向を終了した。僧侶がお経を読みながら壇上の5400体の人形にお米を撒いていたのは、あちら側に行くときの食糧としての意味だろうか。パフォーマンスといえばそれまでだが素敵な計らいだ。人形供養をしたことで、我々信徒には免罪符が得られる。あとはお任せするしかない。魂を抜いてもらい、ただのモノとなって人形の役目を終えてもらうのである。
ここで、「魂を抜く」すなわち抜魂(ばっこん)という言葉に出会った。仏壇仏具にもあるこの風習は、たとえばそれらを移動するときにも行われるようである。新しい仏壇を備えたときは魂を入れてもらうが、引っ越しなどで移動する場合は抜魂してからその移動先で再び入魂してもらう場合もあるようだ。
「河童」と「尻子玉を抜く」と「魂抜き」
以前「河童」の研究をしたことがある。河童にはさまざまな習性があるが、その中に、危険な川遊びをする子どもなどに注意を促すために河童に足を引っ張られるという民話が各地にある。その時、河童が「尻子玉を抜く」から川に近寄るな、という意味ぐらいに使うようである。この、シリコダマというのがどうやら、直腸あたりにあるらしい。私にはこのシリコダマのタマが魂や霊のことに思えて仕方がない。昔の人は、魂は脳でも胸でもなく内臓や胎(はら)にあったと考えていたのだろう。いや、今の時代でもそうではあるが。
河童は水神の零落した姿であると民俗学的には考えられている。しかし、一方では人や馬を水中に引っ張り込んで悪さをする荒ぶる神でもある。シリコダマを抜いてあげることでヒトガタとしての人形が安らかに役目を終えるのは納得のいく行事だと私には思えた。