火葬が非一般的な葬法である時代・文化圏で、極めて例外的に火葬を望み、叶えられた人物については、特に支配層に属する人々を中心に、何人か報告されている。
例えば、江戸時代初期の将軍夫人であった江姫や、中国の清朝初期の貴族であった呉洪裕などである。
当時一般的とされていた埋葬を拒んだ人とは
一方、江姫や呉洪裕とはいわば逆に、火葬が一般的とされる時代・文化圏で、例外的に火葬を拒否する例も、なかったわけではない。特に中世日本の上流層の人々の中には、そうした例が散見される(但し中世日本で「火葬が一般的だった」のは、天皇や上流貴族のような、極めて高位の人々に限られており、より身分の低い人々も考慮に入れると、決して「火葬が一般的とされる社会」ではないが)
平安貴族には、火葬に否定的な人物も決して少なくなかったことが、当時の記録や伝説などから読み取れる。そうした、火葬に否定的だった可能性の高い人物の中には、伝説の中で「復活して読経をしたいので、火葬しないで欲しい」と言い残して亡くなったとされる、藤原義孝がいる。
例え伝説であっても、この「死後の、再度のこの世への復活」を信じて火葬を断った人物が、平安貴族社会にいたということは、大変興味深い。このことは、前近代の日本、更には東アジアの仏教信仰が、常に火葬に肯定的だったわけではないということを、大変わかりやすく伝えている例だといえよう。
藤原定子や藤原城子など
他にも平安時代には、特に皇后に、火葬拒否と推定されるケースが何人か報告されている。
一条天皇の皇后で、清少納言の主君だったことでも有名な藤原定子が亡くなった際、彼女の遺体は、「築土」という、泥で塗り固められた壁を持ち、屋根が架けられた建物に安置されたという記録がある。
また、三条天皇の皇后であった藤原城子も、定子同様、築土に安置された。定子の遺体が築土に安置される運びとなったのは、彼女の希望によるものかどうかは、不明である。ただ、娍子の場合は彼女本人の意思であったという。
このように、天皇に嫁いだ女性のうちの何人かは、自分の死後に火葬されることを、断った。なぜ、特に皇后にこうした火葬拒否の動きがあったのかは、残念ながらまだ不明である。
最後に…
更には、定子の夫一条天皇も、土葬を希望していたという記録もある。但し、願いは叶わず、結局彼の遺体は火葬された。その理由は幾つかある。しかし、最も大きな理由は、一条天皇は重病のため助かりそうにない状態になった時に、緊急に従兄三条天皇に譲位し、形の上では「上皇(退位した天皇)」として亡くなったからであった。
平安時代の最盛期、「現役の天皇」として亡くなった天皇は、一つには「穢れ」を防ぐためもあり、土葬されることとなっていた。一方、既に退位した上皇の場合は、そうしたタブーが若干薄らぐとされたらしく、火葬されるケースが一般的だった。
ただ、当時は一条天皇の例のように、現役の天皇が健康を害し、助かりそうにない場合は緊急に後継者に譲位し、形式上はあくまで、「上皇」として亡くなったことにされるケースが大半であった。この時期の、天皇よりも皇后の土葬率が高いのは、一つにはそのためであった。
参考文献:民衆生活の日本史・火、 天皇と葬儀 日本人の死生観