秋の彼岸に当たり、お墓参りをされた方も多いと思います。今は亡き親族や友人などの墓前に立ち合掌。お墓の周囲を掃除し、花を添え、或いは線香を焚いてお供え物をしたり・・・。
やや慣習的な行事となっておりますが、そうした行為の最中、浮世の名利にうつつを抜かしている普段の自分がぱっと消え、自身も含めてどんな人も何時かは死んで骨になるという不変の真理に気づき、つい襟を正したくなります。
お墓参りには故人を見舞う事以外に、自分の存在意義を再確認させる効果がある
死を忘却した日常が砂上の楼閣の如く崩壊し、死を直視すると同時に生きる意義、生きる目的を再確認する。そしてこの再確認が出来た時、自分の心の受信箱に、故人からの大切なメッセージがすうっと届いてくる・・・。お墓参りには故人の霊を弔う事のほかに、こうした貴重な瞬間が得られるのも事実だと思います。
処で彼岸という仏事は、我が国固有の習俗が仏教と結びついたもので、中国などには無いそうですね。興味本位に彼岸という言葉を辞書で調べてみました。生死から解脱した悟りの境地。そんな事が書かれてありました。生死からの解脱って、一体どういう事なのか鈍な私には余りピンと来ません。葬儀によって、故人は生死から解脱する事になるのでしょうか。この辺りもよく分かりません。
物騒な世の中になったことで人と人との関係性が希薄してきたことも家族葬普及のひとつの理由
葬儀と言えば皆様ご存じの如く、最近は多くの参列者を呼びかける様な大々的なものよりも、小ぢんまりとした家族葬などが増えている様ですね。こうした傾向は消費の節約志向に起因しているとの見方が一般的な様です。或いは「家族葬は少子高齢化社会に相応しい葬儀の形」などの声も聞かれます。
成程、一応納得はしますが、へそ曲がりなのか私は「ひょっとして世情の不安定さも関係しているのでは」との疑念を抱かずには居られません。
経済大国を経験した日本では成熟した社会を確立する一方で、人と人との繋がりが希薄になってきたと指摘されているのは周知の通りです。特にバブルの崩壊から昨今に至り、この傾向がより顕著になっている様に思えてなりません。”振り込め詐欺”の横行など、今の世を乱世と位置付ける見方も出ております。こうした世情の不安は、勢い他者との係わりを避ける傾向を加速させ、これが葬儀の面でも顕在化している・・・。
少々考え過ぎかも知れませんが、乱世なればこそぜひ彼岸にと、お墓参りで合掌する手につい力が入ってしまうのは私だけではない様に思えるのですが・・・。