四国地方に戦前頃まで存続していた死者を弔う行事に、「仏の正月」「巳午」「辰巳正月」、あるいは「骨正月」などの名で呼ばれるものがある。
これは、その年に亡くなった家族のいる家で12月に行われ、墓地に行って餅を食べる行事である。
なお、主に近畿地方に伝わる、1月の「終い正月」での「骨正月」は死者の弔いとは無関係であり、ここでの「骨正月」とは別物である。
年末に墓参りをするという仏の正月
この「仏の正月」などの名で呼ばれる仏事で興味深いのは、年末に墓参りをするという点である。
現代の日本では、その年に亡くなった家族がいるかいないかを問わず、年末に墓参りをするのは、必ずしも一般的なしきたりではない。ちなみに年末の新仏への墓参りの際、墓地で餅を食べるのは、死者と生者が共にする最後の食事であり、遺族はこれを経て喪から明け、新年を迎えるのだとされていた。
しかし実際には、日本で墓参りの習慣が始まった頃には、年末に墓参りをするしきたりがあったようである。結論をいうと、この年末の墓参りは、鎌倉時代の上流武士が行ったのが始まりである。
墓参りの信仰自体は鎌倉時代から始まった
平安時代、皇族や上流貴族などの貴人は、自分の一族の墓を持っていたが、墓参りの習慣は基本的になかった(但し、高い地位に就いた際の慶びの報告がされたという記録はある)。なぜなら、当時は死者の魂は墓や遺体・遺骨には宿らず、死後の異界に渡っていると信じられたからである。死者の弔いは、故人のいた邸宅や菩提寺で行われていた。
この頃既に、年末に死者の魂がこの世に帰ってくるとする信仰が生まれ、その際には、ユズリハの葉の上に食物を供える風習があった。但し、帰ってきた故人の魂は墓には滞在しないと考えられ、この行事は自分の邸宅で行われた。
しかし鎌倉時代に入ると、年末に帰ってきた死者の魂は、一時的にではあるが墓に滞在するという信仰が生まれたようである。これは、中世末期〜近世に少しずつ広がり、近現代に強化された「死者の魂は、墓や遺体・遺骨に宿ってこの世に留まる」とする信仰の、最も草創期の姿であるといえよう。そのため、年末の墓参りが貴人たちの間で始められた。
しかし、年末に墓参りというしきたり自体は次第に廃れていった
この墓参りは京都を中心とした近畿地方でも行われたが、特に鎌倉の上流武士の間で盛んであり、次第にやや身分の低い層にも取り入れられていった。そして中世の半ば以降、この年末の墓参りのしきたりは廃れ、墓参りは他の時期に行われるようになっていった。その際も鎌倉・東日本では、年末の墓参りが近畿地方に比べ長く続いたという。
鎌倉などの東日本からは遠く離れてはいるが、四国にあった、「仏の正月」あるいは類似の名で呼ばれる仏事は、この年末の墓参りの風習をルーツとする可能性も、考えられなくはない。
参考文献:悩み解決! これからの「お墓」選び、 葬送習俗事典: 葬儀の民俗学手帳、 日本葬制史