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明治に国内で広がりをみせた火葬。お隣の中国はどうだったのか調べてみた。

明治時代の東京では、大幅に火葬率が高まった。

理由は複数あるが、大きな理由の一つとして、「鉄道の発達による、遠い出身地から上京する人々の増加」が挙げられる。
そこに、折からの「一族の墓に葬られることへのこだわりの強化」が加わり、東京で亡くなった“お上りさん”の遺体が、故郷の墓に葬るために東京で火葬されることがメジャーになった。


中国でも火葬率が高まった

実はほぼ同時期の中国(清王朝末期)でも、少々似たような傾向があった。つまり、遠方で不慮の事故や自然災害などにより亡くなってしまった場合、故郷の墓に葬るため遺体が現地で火葬されるケースがよくあったのである。

当時の大衆向け絵入り新聞にも、そうした場面が描かれている。そこに描かれた絵からは、遠方での不慮の事故で亡くなった人々の遺体を火葬する場合についてのことが、何点か推定できる。現場の近くの空き地などに石を積んでかまどを作り、火葬を終えると取り壊したようである。

この時代の中国では火葬場が常設されておらず、こうした「遠方での予期せぬ災害による死者」が出た場合のみ、一時的に設営されるものであったということは、大変興味深い点である。

ちなみに清朝初期には、上流層に属していたが、当時としては非一般的であった火葬を望み、その希望が叶えられた呉洪裕という人物がいた。彼を火葬した“火葬場”も、今回の例よりも大幅に過去の例であるが、恐らく一時的に設営されたものであろう。呉洪裕一族は極めて富裕であったようであるから、火葬用のかまどは、邸宅の広い敷地内に設けられたかも知れない。


遺骨を取り違えないための工夫もされていた

なお、遺族が故人の遺骨を取り違えないための工夫もされていた。

その頃中国に写真撮影の技術が伝わってきたことを利用し、遺体の顔写真を撮影したのである。ちなみに先述の絵入り新聞の記事は、その遺体の顔写真撮影についての記事であった。更に補足すると、この頃の日本では遺体顔写真を使った遺骨取り違え防止の工夫は、筆者の知る限りでは行われていなかったようである。

そしてこの大衆向け絵入り新聞の記事本文は、「この世に残された者も、あの世に旅立った者も、感謝の気持は言葉にできないほどであった」というような言葉で結ばれている。つまり、「遠方での不慮の死」を遂げた者の遺体を火葬することと、遺骨取り違えがないよう遺体の顔写真が撮られたことは、共に「良い計らい」として扱われたのである。

参考文献:世紀末中国のかわら版 絵入新聞『点石斎画報』の世界


清朝末期武術家 黄飛鴻ウォン・フェイフォン フィギュア

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