江戸時代前期頃までの日本では、遺体や遺骨や墓へのこだわりが極めて少なかった。そして更に言うと、この「遺体・遺骨や墓などにこだわらないこと」が、当時はごくごく普通のことであったことが、端的に現れた遺跡・遺構がある。
それは、特に近畿地方に残る安土桃山時代の幾つかの城の石垣である。それらの石垣の中には、古い墓石や石仏・石碑などを石材として使ったものがよくみられる。石材とされた墓石・石仏・石碑などを「転用石」と呼ぶ。
転用石は罰当たりではなかった!
こうした転用石の中には、意図的に切断されたものも多く、現代ではこれを「罰当たり」であると思う人は多い。しかし、これらが石材として転用された当時の常識では、決して「罰当たり」ではなかった。
その理由には様々な説があるが、よく言われるのが、「敵の大将や領民の墓石を没収したことの誇示」説である。しかしウィキペディアによれば、実際には圧倒的に自領にあったものが使われていることが多かったという。これはむしろ墓石ゆえの呪術的な力を集結させ、味方に付ける意味で行われた可能性が高いという。
事実、転用石はしばしば目立つ位置に配置され、しかも元々は墓石や石仏などであったことが、ことさらに強調される配置となることが多かったともいう。
石垣だけでなく道標に墓石が使われるケースも存在する
これを思うと、転用石は恐らく「故人の遺体・遺骨や墓へのこだわりの希薄さ」と、民間信仰としての「墓石や石仏・石碑などの、いわば“聖性・霊性を持つ石”への崇拝」が両立したことによって、発生したのではないかと考えられる。
なお近畿地方では、江戸末期の庶民層の間でも、墓そのものを道標に転用したと思われる例がある。つまり、お墓に道案内が刻印されているのだ。これらはいわば「転用石文化」と呼べるのかもしれないが、比較的新しい時代まで根付いていたふしがある。