宗教には肉体軽視のいわゆる「霊主肉従」の傾向がある。ある宗教は霊魂・他界の存在を説き、またある宗教は諸行無常を唱えて有限なるこの世の儚さを説いた。宗教が、死という滅びが必ず訪れる肉体を軽視し、肉体を超越した価値を提供するのは当然といえる。しかし肉体軽視は必ずしもすべての宗教に共通するものではない。本稿では肉体軽視の思想をギリシャ哲学の一大潮流であるプラトニズム、肉体尊重の思想をギリシャ最大教派・ローマ・カトリックを例にして比較した。
プラトンの肉体観
西洋での肉体軽視の歴史は古い。プラトン(BC427~347)は肉体を「魂の牢獄」とまで言う。
ー 哲学者というのは、普通人とはちがって、魂を肉体との結びつきからできるだけ解放しようとする者だ(パイドン)
肉体はやがて朽ち果てる。プラトンによればそれはこの世界が仮の世界で、形ある有限な存在だからだ。仮の世界ではない本当の世界の存在をプラトンは「イデア」と呼ぶ。イデアは「数」そのもの、「善」そのものといった抽象的存在で、プラトンはイデアは真の世界として「存在」していると説く。そのような形を持たない究極的抽象的存在には寿命も限界もない。そのイデアを人間が認識し語ることができるのは、やはり無形・無限の存在である「魂」が感応しているからである。有限なる肉体から解放された魂は、純粋な存在として、真の存在「イデア」と直接交わることができるという。このようにプラトニズムとは肉体軽視の思想である。やがて滅びゆく肉体よりも永遠なる魂を重視するのは当然ともいえる。
プラトニズムは現代に至るまで大きな影響を与えている。学問には形のない抽象的なものほど高級だという見識がある。プラトニズム的見識では、工学より理論物理学、理論物理学より純粋数学がより高級とされ、「数」の仕組みを研究する整数論は「数学の女王」と言われるほどだ。アインシュタイン(1879~1955)は数式に比べて現実の宇宙空間にはほとんど興味を示さず、胸ポケットの万年筆を指して「私の宇宙はここにある」と言ったという。より本質に近づくほど抽象に近づくことであるとする学問の考え方はプラトニズムが源泉となっている。しかし、後にギリシャ・ローマ文明を飲み込むことになるキリスト教では大きく異なる。
カトリックの肉体観
ニーチェ(1844~1900)が批判するようにキリスト教といえば現実・物質・肉体を汚れたものとして軽視し、神・天国といったこの世を超越したものへ価値を見いだすイメージが強い。しかしキリスト教の主流であるローマ・カトリックは肉体を尊重し、むしろ人間の肉体性を強調する立場をとっていることはあまり知られていない。人間は神に似せて創られたものである(imago dai=神の似姿)。神の被造物たる肉体は尊いものでこそあれ、軽視されるべきものではない。カトリックが禁欲を説くのは尊い肉体を大切にし、より高い境地に導くべきであるという意味で肉体軽視とは真逆の思想といえる。
さらに決定的なのが「キリストの受肉」である。キリスト教の肉体観が他の宗教と決定的に異なる要素として、イエス・キリストの「受肉」という「事実」が背景にある。神が人の肉をまとって現世に現れる不合理かつ矛盾に満ちた「事実」は、肉体を軽視できない背景となった。ローマ・カトリック(並びに古代キリスト教の形を最も濃く残している東方正教会)はキリストの受肉という神秘を事実として受け入れることで肉体尊重の思想を構築したのである。
そうはいっても肉体はやがて老い衰え、朽ち果てる有限な存在ではないか。それなら魂に永遠を見いだすプラトニズムの方が救われるように思える。肉体軽視の思想はいずれ自分にも訪れる最期に備えての慰めになるのではないか。
カトリシズムでは肉体が偉大な被造物であると同時に、いずれ滅びゆく不完全性を有していることについて「原罪」を根拠としている。聖書には最初の人間アダムとその妻・エバが神の掟に背き、永遠の命を生きられる楽園を追放され、人間は肉体の永遠性を失ったとある。同時に人間は死後「最後の審判」を迎え、原罪を赦され、肉体ごと復活すると説く。肉体ごとというのが特筆されるところだ。復活するのは決して肉体から離脱した霊魂のような存在でない。あくまでこの肉体なのである。
プロテスタントの解釈
同じキリスト教でもプロテスタントになると解釈は変わってくる。プロテスタント神学者 ルドルフ・ブルトマン(1884~1976)は、聖書の奇跡などの記述は現代では受け入れられないとして哲学的に解釈する、聖書の「非神話化」を説いた。同じくプロテスタント系の宗教哲学者 ジョン・ヒック()1922~2012)はキリストの受肉は「メタファー(比喩)」だとはっきり述べている。
理性的な立場ではあるが、理性と論理の極みともいうべき哲学や数学を構築したギリシャ・ローマの人々が、なぜキリスト教のような不合理な教義に飲み込まれたのかを考える必要がある。諸説あるところだが、筆者はそのひとつは肉体観にあると考える。尊くかつ不完全な肉体は「創られたもの」であるという認識と、それを創造した神の存在。やがて肉体が朽ち果てる死という、哲学のクールな抽象的分析では克服できない絶望。人々はキリストの「事実」を根拠とする肉体の復活に、死のその先の未来を提示され希望を見いだしたのではないだろうか。
最後に…
人生の最期は肉体的苦痛に襲われることが多い。ガンなどとの闘病の末にやっと死という救いが訪れる。しかし医学の発達はその救いを中々与えなくなってきており、安楽死や尊厳死の合法化が議論されるのは当然の流れだろう。カトリック教会は神に与えられた肉体を尊重する立場から、自殺や安楽死などに反対の立場を取っており賛否を呼んでいる。最近では厚生労働省が、終末期医療に向けて患者自身と家族とが、今後どうするかを話し合う「人生会議」なるコンセプトを提唱している。終末期医療における宗教の役割を考えるとき、滅びゆく「肉体」とは何かを改めて考える時期にきているのではないだろうか。
参考資料
■稲垣良典「現代カトリシズムの思想」岩波書店(1971)
■プラトン著/岩田靖夫 訳「パイドン」岩波書店(1998)
■エド・レジス著/大貫昌子 訳「アインシュタインの部屋 天才たちの奇妙な楽園 上」工作舎(1990)