「平成最後の」や「令和最初の」が形容詞となった言葉があちらこちらから聞こえてきます。桜の便りと共に時代の移り変わりを迎えたこの時期に人々の気分が高揚しているようです。
前回の御世替わりは、重病だった昭和天皇崩御によるものだったので、事前に「昭和最後の〇〇」なんてことを言える雰囲気は世の中にありませんでした。ましてや庶民が元号を予想するなんてことは、日本国始まって以来のことでしょう。
御代替わりから感じたこと
時代が終わる前に心の整理をしようなんて気持ちになるのは日本人独特の感性じゃないかと思います。新しい時代が始まる前に、何かを合わせようとする人も多いことでしょう。とにかく終りも始まりも区切りをつけたい私たちがいるように思います。
平成という元号が替わるだけで私たちの生活になんら変化をもたらすものではないのですが、平成の内に整理整頓して新しい時代となる「令和」を迎えようとする人がいます。それはそんな大げさなことではなく、改めて時代を偲ぶ、あるいは時代を送るようなものではないでしょうか。
「平成最後の何とか」って言うのもそんな感情の一つの現れでしょう。カラオケで平成の歌三昧する人も平成の景色を絵に残そうと描く人などもそれぞれがそれぞれの思いで平成を振り返ることをされているのではないでしょうか。御代替わりは、時代の終焉を弔う告別式のようではありませんか。私たちは、一つの時代が逝くのと新しい時代が誕生する瞬間に立ち会うことになります。
葬儀の見方が変わった
御代替わりによる新しい時代「令和」を国民すべてが前向きな気持ちで捉えているようです。この度の御代替わりは、時代の終りというより新しい時代が始まったという雰囲気が色濃く感じられます。今上陛下の崩御が伴ったらとてもそんな気分にはなれなかったでしょう。
同じように年老いた親が元気であるうちなら笑いながら亡くなった後のことを一緒に語れるのではないでしょうか。親が病に臥せり介護が必要になってからでは不謹慎なこととかるがるしく亡くなることを前提にした話などできやしません。
葬儀は、亡くなった人を悼み冥福を祈るだけの儀式ではなく、残された者たちが何かを受継ぐとか新たに始めるとかの出発の儀式でもあるのではないでしょうか。今回の御世替わりにそのような考えが浮かびました。
葬儀を陰気臭い宗教儀式ぐらいにしか思っていませんでしたが、案外新しく己を進める機会になりそうな気がしてきました。
葬儀は残された者たちの船出の場
長い人生の付き合いの中で、色々な人の旅立ちの場に立ち会うことがあります。お義理の参列もあるだろうが、親しい人身内の場合があります。
故人の死を悼み、悲しみ、偲び、別れる場です。
だが、葬儀を死んだ人との単なる別れの場にしてしまうと、焼香して御仕舞いになります。暗い気持ちで終わるだけでしょう。葬式を故人のためのものだけでなく、自分が生まれ変わる機会を与えられた場だとと思えば、参列する葬儀の意味合いも違ってくることでしょう。