イギリスのインディペンデント紙に、ゲーマーたちが亡くなったゲーム仲間のオンライン葬儀を行っているという記事が掲載された。その内容の一部を要約して紹介しよう。
ゲーマーたちの感動的なオンライン葬儀
ゲーマーたちはオンラインゲームの中で行われる葬儀に参加して何時間も過ごす。故人とは現実世界で会ったことはない。けれどオンラインゲームを通じて互いに強い絆のあった仲間だ。
ゲーマーたちはアバターと呼ばれる自分の分身であるキャラクターをゲーム画面上に設定し、同じオンラインゲームに参加する仲間と出会う。彼らはゲームをクリアするために互いに助け合い、友情をはぐくむ。特にロールプレイングゲームの中でその傾向は顕著で、彼らは現実世界とは違う、もうひとつの家族のように共に生きる存在となる。
ゲーマーたちはずっと以前から、この現実世界で会ったことのない仲間の現実の死に際して、オンラインゲームの中で葬儀を行ってきた。ゲーム開発者もニーズに応えたサービスを提供している。彼らは現実の葬儀で個人の写真を抱きしめるように故人の最後のゲームの状態を保存したり、最後のプレイ場面に記念碑を立てたりして祈りの言葉を唱え、集う。
自分の家族の葬儀がゲーム中で行われたことを知ったある人は言う。「とても感動的だった。僕たちが知らないところで彼には悼んでくれる大勢の仲間がいた。」
現実世界の葬儀へ参加できるひとは限られる。物理的距離の問題もあるであろうし、家族や親しい友人しか参加できないかもしれない。だからゲーマーたちにとってゲームの中でお別れの儀式ができることは大事だ。彼らはそこで仲間を失った悲しみと向き合うことができる。仮想世界の友情と別れだけれども、彼らの悲しみと痛みは仮想のものではないのだから。
現実の葬儀の忙しさと置き去りの気持ち
記事の中で、ゲーム葬儀が行われた故人の親族は「感動した」と述べている。それは故人がゲームの中で豊かな人間関係を持っていたという事実を知ったからのみならず、この葬儀に純粋な悲しみと追悼の気持ちを見たからだろう。
世界中のどこであっても、現実世界の葬儀とは忙しいものだ。各所への連絡から始まり、あちこち義理立てが必要だったり、お金の工面を心配したり、さまざまな手配手続きに忙殺される。その忙しさが悲しみを紛らわすこともあるだろうが、一通りのことが済んで落ち着いてくると、あれで良かったのだろうか、と自分の気持ちが置き去りだったことに気づくというのもよく聞く話だ。
生きていく人のために
近年、人生のさまざまな局面でのメンタルケアの知識が一般的になり、お別れの儀式は故人の為のものだけではないと言われるようになった。残された人たちが悲しみに折り合いをつけ、これからを生きていく為の儀式でもあると意味付けされる。
仮想現実という言葉の冷たさとは裏腹に、血縁や地縁から離れたインターネット上の人間関係においても、お別れの儀式が必要とされている。人の命が永遠でないかぎり、時代が変わり、価値観が変わり、形が変わっても、お別れの儀式というのは永遠になくならないものなのかもしれない。