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死は恐ろしいが死が永遠に訪れないことも恐ろしい。死が教える生の尊さ。

不死は人間の絶えない願いである。地上に手に入るすべてを手にいれた権力者が最後に求めたのが「永遠の命」であった。秦の始皇帝が不老不死の秘薬を求めて派遣したのは有名な話である。死は恐ろしい。死んだことがないのだから恐ろしいのは当然である。死が怖くないという人間は死をリアルに感じたことがないのだろう。だが、死なないこと=不死とは本当に幸せなのだろうか。


不老不死を夢見た人々

不死をめぐり人間は様々な方法を考案してきた。卑金属を金に変える西洋の「錬金術」の最終的な目的は不老不死だったという。錬金術では「賢者の石」という霊薬の生成が求められた。これは卑金属を金に変えるだけではなく、服用することで不老不死にもなれるとされた。

中国でも不老不死の霊薬を生成する「煉丹術」が存在したが、それ以上に「仙道」という天地に満ちるいわゆる「気」を身体に取り込み、不老不死の仙人になることを目的とする神秘的身体技法が発達した。これは後の「気功」の源流である。洋の東西を問わず、人間は不老不死への見果てぬ夢を追っていた。


現代の不老不死術

現代の不老不死術と言えるのが「人体冷凍保存」(クライオニクス)である。不治の病で亡くなった人体を冷凍保存し、未来に医療技術が発展することを期待して、蘇生が可能になったころに解凍・治療しようという考え方だ。SFでおなじみの「コールドスリープ」(冷凍睡眠)とは異なり、あくまで死亡が確認されたあとの処置だが、アメリカにはこれを扱う会社があり死後の冷凍保存を希望する人たちの予約で埋まっているという。不治の病を患い、自身の死を受け入れられない人たちが、未来の医学の力で復活することを期待して長い眠りにつく。


具体的にはどんな不老不死の技術が研究されているか

肝心の冷凍技術だが、冷凍保存の時点で既に細胞が破壊されており、蘇生は不可能であるとの指摘がされている。少なくとも現段階で冷凍技術による「患者」は、現代医学の定義では明確な「遺体」であるとされる。そこからの復元・蘇生も含めて未来の技術に丸投げというわけだ。それでも死を拒否する人たちは一縷の望みを遠い遠い未来に託している。


不死は幸せか

しかし、この「遺体」が、もし数百年後に蘇生できたとして、その人たちに何が残っているだろう。家族、友人はすべて世を去っている。誰もいない誰も知らない世界で精々何十年生きるだけのことではないのか。そのような浦島太郎は果たして幸せなのか。生きることは辛い。しかし永遠に生き続けることはもっと辛いとは言えないか。


不死をテーマにした手塚治虫の「火の鳥」

手塚治虫の「火の鳥」は、永遠の命を巡る人間たちの業の物語だ。この作品の事実上の最終話「未来編」では火の鳥の血を取り込み、不老不死に「なってしまった」男の悲劇が描かれている。不死となった男は人類が滅んだあとも死なずにいた。地球にひとりぼっちになってしまったのだ。
男は「3000年後に覚醒する」と書かれたコールドスリープのカプセルを発見する。男は彼が目覚める3000年後を心の支えとして生きた。しかし3000年後のその日、装置の故障か、冷凍技術が未熟だったか、「彼」は粉々に砕け散っていた。
男にとって「彼」の覚醒を待つ3000年は幸せだったはずだ。その間、男はひとりぼっちでなかった。しかし再び男は、誰もいない世界に永遠に生き続けることになった。


藤子・F・不二雄の「21エモン」にも登場する不死の星

漫画の話が続くが、藤子F不二雄の「21エモン」には、科学が発達しすぎて人が死ななくなった星が登場する。この星には「0次元」という安楽死施設があり、ここに行くと自己を「消滅」させることができる。この星では生きることに何の不自由もなく、人間がやることがなくなり、ただただ生きているだけの毎日に飽きてうんざりした人たちが「0次元」に行くのである。死ぬことではなく、生き続けることからの逃避であった。

確かに死は恐ろしい、しかし死なない世界というのも恐ろしいだろう。決して死にたいわけではない。むだが生き続けたくもない。勝手な話ではあるが、「いつか来る終わり」は必要だ。終わりがなければ、人間は怠ける。飽きる。生きることに飽きたらおしまいである。


死が教える生きる素晴らしさや尊さ

今年3月25日、末期ガンと闘病していた女性 山下弘子さんが25歳で永眠した。19歳で肝臓がんが発見され「余命半年」と宣告。山下さんは手術、再発、転移をくり返しながらも、新しい治療法の治験に協力したり、同じ境遇の人たちのための講演など独自の活動を展開していた。山下さんはガンである今について「幸せです」だと語っていた。死に向き合えばこそ生きているのことの素晴らしさを知ったのである。

不治の病に冒された人が病にむしろ感謝していると語ることは珍しくない。いずれの方たちも真剣に生きることができたからだと語っている。彼らは死に向かい合って初めて生きるということを知ったのだ。その意味では生きるためにこそ死はあるといえる。 そして限りある命を大切に生きようと思うのではないだろうか。


最後に「生きた」と納得できるかどうかは死があればこそ

クライオニクスに身を委ねた人達は未来での復活を夢見て「死」ではなく「眠り」に入った。その家族も二度と会えないことに変わりはないが「死」ではないことで悲しみを埋めているのかもしれない。その意味で新しい埋葬方法といえなくもなく、その気持ちは十分理解できるものの「生」に執着しすぎている感も否めない。

筆者は山下さんや死と向き合って人生を全うした方々に共感を抱く。例え不老不死が実現しても宇宙の終わりは必ず来る。大切なのは例え残り1秒でも与えられた命をしっかり生きることだと思う。
そのような人は「死んだ」というよりむしろ「生ききった」と言うべきだろう。それを教えてくれるのはやはり「死」なのである。


ライター渡邉 昇
火の鳥

火の鳥

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