1997(平成9)年3月30日まで稼働し、2015(平成27)年7月4日に、ユネスコの世界遺産、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」のひとつに選ばれた、福岡県大牟田(おおむた)市、柳川(やながわ)市、そして熊本県荒尾(あらお)市にまたがる巨大炭鉱・三井三池(みいけ)炭鉱にまつわる、『幽霊橋』という話がある。
児童文学作家・松谷みよ子による幽霊橋
「囚人たちは、ばたばた死んでいきよった〔死んでいった〕。病んで、まだ息のあるもん〔者〕を古井戸に投げ込んだともいう。その古井戸からは夜さり〔夜になった頃〕うめき声がするちゅうて〔と言って〕近寄る者もなかった。そんな訳やから〔だから〕墓のあるもん〔者〕は、よっぽどしあわせじゃった。けどその墓も、なんのたれ〔誰〕それと俗名もなければ、もちろん戒名もない。ただ番号が一とか五とか、ついとる〔ついている〕だけのもん〔物〕じゃった。そこらのやぶ陰、谷あいに捨てられるよう埋められたもん〔者〕は、数限りもなかったろう。
その囚人の幽霊だろうか、勝立町(かつだちまち)にある小さな泥橋(どろばし)に、雨のしとしと降る夜さり、やせこけた男がしょんぼりと立って、
『わしはどこへ行ったらええんじゃろ』
ちゅうて〔と言って〕、通る人に尋ねるという…(略)…その男に会うた〔会った〕者は、いつまでも夢でうなされるという」
日本国内での囚人労働とは?
「囚人労働」といえば、帝政ロシア末期の20世紀初頭、シベリア鉄道敷設時に多くの囚人・流人たちが使役されたことで知られている。日本では主に明治前半期、西欧諸国を見習い、近代化へと進み始めていた時に、労働力不足の解消と、低賃金労働力利用のために、三池炭鉱の他、北海道の幌内(ほろない)炭鉱、群馬県の中小坂(なかおさか)鉱山などの官営諸鉱山や、北海道開発における、道路開削・鉄道敷設・築港などに、集中的に投入されていた。
三池炭鉱で労働者として働かされた囚人
明治6年(1873)に官営による稼働が始まった三池炭鉱の場合、当初は三瀦(みずま)県(現・福岡県筑後地方)の囚人50人を、石炭運搬に使役したことに始まる。それから福岡県・長崎県・熊本県などの監獄の出張所・分監を設け、本格的に囚人労働による炭鉱採掘が行われた。
明治15年(1882)には、鉱山直属の「三池集治監(しゅうじかん)」が設立された。囚人労働者のほとんどが無期懲役を含む長期刑だった。その1年後、大浦(おおうら)坑で大規模な暴動が起こり、坑内に火災が発生するほどだったが、明治21年(1888)に財閥の三井に払い下げられた後も、囚人労働は引き継がれた。当時の全坑夫数の69%を囚人が占めていたという。明治28年(1895)が1917人と最も多かった。そしてそのような囚人労働は1930(昭和5)年12月まで続いていた。
三池炭鉱は別名「修羅坑」と呼ばれるほどの過酷さだった
当時「修羅(しゅら)坑」と呼ばれた言葉通り、現在の我々には想像もつかない「悲惨」「劣悪」「危険」な環境下でなされる労働だったが、文字通り暗黒の地下深くに入ってしまえば、「(坑内に)下がれば天下たい(だ)」と言われる、彼ら独自の共同体が形成されていたという。「現物」を確認するすべはないが、囚人たちは仕事の合間に厚い炭壁をくり抜き、作業で用いた枕木などを用いて各人の「家」を建てていた。そしてその中には、残飯でつくった濁り酒に加えて、看守の目を盗んで、道行く一般の人々から物々交換で手に入れた煙草・砂糖・卵・菓子があった。更に彼らは立派な鳥居をこしらえ、「山ン神さん」こと、炭鉱の守護神・大山祇神(おおやまずみかみ)をきちんと祀ってさえいたのだ。
三池炭鉱での囚人労働が終わった時期とその理由とは
三池炭鉱において囚人労働が「終わった」のは、民選議員の建白書が出された明治7年(1874)以降、高まりを見せた自由民権運動でも、大正年間(1912〜1926)において、自由主義的思潮が世に蔓延した大正デモクラシーによる「人道に反する」といった人権思想の高まりに押されたものでもなかった。あくまでも時代の流れに聡く、なおかつ冷徹な「経営者の側」の都合だった。
昭和恐慌(1930〜31)年による日本国内の不況から、三井鉱山は所有する炭鉱の整理統合、人員削減を迫られていた。また、明治30年代(1897〜1906)以降から積極的に導入され始めた、最新科学技術に基づく大型機械、そしてダイナマイトを用いた発破による採掘法の採用などによって、時折起こる暴動を懸念し、要所要所に何人もの看守を置いて監視しつつ、大勢の囚人を使っての人海戦術による「手掘り」よりも効率よく、多くの採炭量が期待できるようになったこと。そして最新技術導入に適した、四山坑・宮浦大斜坑などが開削されたことによって、それまでの宮原坑・勝立坑・大浦坑が閉坑することになったためである。最後まで残った囚人は、宮原坑の99人だけだった。
作業中に亡くなった囚人を埋葬した解脱塔と古井戸
民話の中の囚人たちは、どこに行ってしまったのだろうか。かつての勝立坑からほど近い丘の上に、「解脱(げだつ)塔」と呼ばれる、7メートルほどの高さの供養塔を中心とした慰霊施設がある。塔は明治21年(1888)に、三池集治監の官吏員によって建てられたものだという。そこはもともと法務局が持っていた土地で、炭鉱で亡くなった囚人を葬っていた場所だった。囚人が亡くなると、20銭のセメントの空き樽を買ってきて、その中に遺体を入れた。その後、大正10年(1922)前後に、塔の下の土地に炭鉱夫用の社宅を建てることになり、土地を造成した。するとそこから人骨が次から次へと発見された。また、塔のそばには直径2メートルほどの古井戸がある。それはかつて、埋葬地が満杯になったため、その中に遺骸を投げ入れていたものと言われている。そのため周囲の人々は、民話のように、「幽霊が出る」と恐れていたのだ。
炭鉱やそこで働いていた労働者、それらの存在自体が風化されていく
炭鉱マンとして働きながら、坑内の写真を取り続けていた高木尚雄は、「何十年か先には福岡県大牟田市・みやま市・熊本県荒尾市に三池炭鉱があったことは歴史の本でしか知ることはできないだろう。また、石炭とはどんな物か知っている人は少なくなるだろう。炭鉱の坑内でどうやって石炭を掘っていたか、支柱はどうやって立てていたか、採炭現場や掘進現場はどんなところであったか、選炭場とはどんな仕事をしていたか、炭鉱の社宅はどんな建物であったか」、炭坑という「場所」そのものを日本人は「忘れてしまった」と懸念している。
囚人を埋葬した古井戸から聞こえてくる声
古井戸から聞こえてきたという「うめき声」や、橋の上で「わしはどこへ行ったらええんじゃろ」と道行く人に問いかけていた囚人たちは、現実の「幽霊」というよりも、「歴史の表舞台から、わしらを埋もれたままにしないでくれ」と、囚人が獄舎から修羅坑に毎日行き来するのを遠巻きに眺め、ひょっとしたらまだ生きていたのかも知れなかった古井戸の「うめき声」に「近寄る」ことのなかった、囚人たちと同時代を生きた土地の民に、訴えていたのである。また、囚人に会うと、「いつまでも夢でうなされる」というが、それは「無視」を続けた人々の側の「やましさ」からくる「幻」だったのかもしれない。そしてそれは今も…囚人たちは、「過去」を「見ようとしない」我々に、「民話」「幽霊話」を通して、「わしらを見ろ!」「わしらを忘れるな!」と今なお強く激しく、呼びかけているのである。
参考文献
■松谷みよ子「幽霊橋」松谷みよ子・瀬川拓男・清水真弓(編)『日本の民話12 現代の民話』1974年(55−58頁)角川書店
■ 末吉敬治・小崎文人「三池炭鉱の囚人労働 −地底に埋もれた一つの歴史−」藤本隆士(編)『福岡大学研究所報』第39号(人文科学編 第5号)1978年(79−158頁)福岡大学研究所
■ 鎌田慧『去るも地獄 残るも地獄 三池炭鉱労働者の20年』1982年 筑摩書房
■ 大木美知信・新藤東洋男(編)『わたしたちのまち 三池・大牟田の歴史』1983年 古雅書店
■ 春日豊「囚人労働」黒川雄一(編)『日本歴史大事典 2 こ〜て』2000年(454頁)小学館
■堺孝幸「囚人墓ゆうれい橋 <現代民話・大牟田市>」日本児童文学者協会(編)『福岡県の民話 (県別ふるさとの民話 15)』2000年(185−189頁)偕成社
■春日豊「三池炭鉱」黒川雄一(編)『日本歴史大事典 3 と〜わ』2001年(793頁)小学館
■「宮原坑」『大牟田・荒尾の歴史遺産』2004年
■鎌田慧『全記録 炭鉱』2007年 創森社
■佐口和郎「囚人労働」下中直人(編)『世界大百科事典〈第13〉』1988/2009年(90頁)平凡社
■高木尚雄『三池炭鉱遺産 万田坑と宮原坑』2010年 弦書房
■川添昭二・武末純一・岡藤良敬・西谷正浩・梶原良則・折田悦郎(編)『福岡県の歴史』2010年 山川出版社
■熊谷博子『むかし原発 今炭鉱 炭都〔三池〕から日本を掘る』2012年 中央公論新社
■読売新聞昭和時代プロジェクト(編)『昭和時代 三十年代』2012年 中央公論新社